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潮風の設計図  作者: 水前寺鯉太郎
ロスト・スイング

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第41話:ブラインド・ショット

第4章 第2話:ブラインド・ショット

プロ復帰をかけた、過酷なクオリファイ・トーナメント(予選会)。

かつて「若き精密機械」と呼ばれた優樹は今、これまでの人生で味わったことのないような底知れない恐怖と共に、第一ホールのティーグラウンドに立っていた。

彼の周囲には、最新の弾道測定器を使いこなし、レーザー距離計で数センチ単位の攻略を組み立てる若手プロたちが並んでいる。だが、優樹の手にあるのは、ハイテクな機器ではない。それは、チェ・ジュウォンが工房の奥から取り出した、重厚な**「一本の黒檀の杖」**だった。

「兄ちゃん、これを持ってコースを歩け。これは距離を測る道具やない。お前の心と、地面を繋ぐアンテナや」

その杖の黒い光沢は、まるで彼の脳内に広がる深い霧を吸い取ってくれるかのように、静かにその手に馴染んでいた。

【消えた数字、残った感覚:記号からの解放】

「優樹、残り150ヤード。風は少しアゲンスト(向かい風)だわ。8番アイアンでいいわね?」

キャディバッグを担いで寄り添うのは、母の佳奈だった。彼女は、かつて母・美津子が認知症と戦った日々を一番近くで見てきた。美津子が遺した「手触りのレシピノート」を読み込み、感覚を言葉に変換する訓練を重ねてきた佳奈は、今度は息子のために、その「翻訳者」としての役割を買って出たのだ。

しかし、優樹は困惑したように立ち尽くした。

「……母さん、ごめん。……150っていう数字が、どれくらい遠いのか、もう実感がわかないんだ」

優樹の脳内で、距離という概念が崩壊していた。かつては瞬時に弾き出せた「150」という情報が、今はただの三桁の数字の羅列にしか見えない。数字が意味を持たない世界。それは地図を失った航海士のような絶望だった。

優樹はゆっくりと目を閉じた。そして、ジュウォンの教え通り、手にした黒檀の杖を一度地面に突き立て、足の裏で芝の反発と土の湿り気を確かめた。

「……でも、この芝の湿り気、この風の重さなら、僕の体は『あの音』を鳴らしたがってる」

優樹は数字で計算することを、潔く放棄した。

代わりに、かつて祖母・美津子が調味料の量を「指二本分の高さ」という空間把握で測ったように、彼は空気を叩く「風の唸り」と、クラブを握る「指先の圧力」だけで、自分だけの空間設計を開始した。150ヤードという数字ではなく、「あの銀杏の木の揺れまで届く力」という感覚の質量へと、脳内の座標を書き換えたのだ。

【心で描く放物線:身体という建築物】

「目で見ようとするから、二重の残像に惑わされる。数字で追おうとするから、答えの出ない迷路で迷子になる。……優樹、お前の体の中に、コースという名の巨大な建築物を建てろ」

ジュウォンの野太い声が、脳裏で響く。

優樹はスイングを開始した。バックスイングの頂点。彼の視界は、病の影響で深い霧に覆われ、ピンの位置さえ定かではない。文字通り、何も見えていないに等しい状態だった。

しかし、彼が振り抜いたクラブは、完璧な弧を描いた。

シュパッ、という乾いた風切り音。放たれた白いボールは、どんよりとした曇り空を切り裂き、美しい放物線を描いて虚空へと消えていった。

……カラン。

150ヤード先、霧の向こう側にあるはずの小さな穴から、乾いたプラスチックの音が響き渡った。

数字という論理を失ったはずの優樹が、純粋な「感覚の手触り」だけで、針の穴を通すような正解を射抜いた瞬間だった。

【スコアカードの空白:ゴルファーの誇りと絶望】

18ホールを回り終え、クラブハウスの喧騒に戻った時、優樹は再び残酷な現実に突き当たった。

自分のスコアカードを前に、彼は立ち尽くした。

「4」「3」「5」……。

ペンを握る手が激しく震える。たった5分前、自分がいくつでこのホールを終えたのか、その記憶が砂時計からこぼれ落ちるように消えていく。数字を書き込もうとしても、数字そのものの形が脳から滑り落ちていくのだ。

「……僕、失格だ。自分のスコアさえ書けない。自分が何をしたかも覚えていられない。こんなの、もうゴルファーじゃない……」

悔しさと情けなさで、優樹はその場に泣き崩れた。プロの世界において、スコアカードへの記入は自己責任であり、競技者としての最低限の証明である。それができない自分は、この神聖な芝の上に立つ資格がないのではないか。

その時、ジュウォンが静かに歩み寄り、優樹の震える手からペンをひょいと取り上げた。

「優樹。スコアはな、紙に書くもんやない。お前の打った一打一打が、この地面に刻んだ『音』を信じろ。……数字なんていう無機質なもんは、誰かに預ければええ。あんたはただ、この世界を流れる『風』だけを追えばええんや」

佳奈が優樹の代わりに、一打ずつ確認しながらスコアを記入し、競技運営に提出した。そこには、アルツハイマーという深い霧の中にありながら、心と身体の対話だけで描き出した、奇跡のようなスコアが並んでいた。

夕暮れのクラブハウスのテラス。

優樹は、ジュウォンがくれた黒檀の杖を膝に乗せ、小さなナイフを取り出した。

そして、今日打ったあの150ヤードのショット、あの「最高の指先の感触」を忘れないために、杖の表面に小さな、けれど深い「刻み目」を入れた。

「……おばあちゃん。僕、数字はもう書けないし、さっきのホールの景色も忘れちゃった。でも、この手に残った『重さ』だけは、まだ僕の友達でいてくれるみたいだ」

指先でその刻み目をなぞると、脳のどこかが微かに共鳴する。

しかし、安堵したのも束の間、優樹が顔を上げると、先ほどまで見えていたはずのクラブハウスから駐車場へ続く「道」が、ゆっくりと、けれど確実に、重く暗い夜の闇の中に溶け始めていた。

「母さん、……道が、ないんだ」

優樹の呟きは、秋の風にかき消されていった。


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