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潮風の設計図  作者: 水前寺鯉太郎
ロスト・スイング

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第42話:揺れるフェアウェイ

第4章 第3話:揺れるフェアウェイ

表彰式の華やかな喧騒が遠のき、西日が長く伸びる頃、優樹の足元は急激にその確信を失っていった。

さきほどまで、喝采を浴びていたクオリファイ・トーナメントのヒーロー。しかし、クラブハウスへの階段を上ろうとした瞬間、彼の膝は激しく笑い、視界はぐにゃりと歪んだ。

平衡感覚を司る脳の深部。そこまで病魔の侵食が及んでいることを、身体が悲鳴を上げて伝えていた。

「優樹! しっかりして!」

佳奈が慌てて駆け寄り、彼の腕を支える。だが、優樹にとって、彼女の支えさえも荒波に揺れる小舟のように不安定だった。世界が左右に大きく、ゆっくりと傾斜し、地面が生き物のようにうねっている。

【座標を失った足元:底なしの緑】

「……母さん、地面が……波打ってるみたいだ。どこが『平ら』なのか、もう分からないんだ」

優樹は佳奈にしがみつき、荒い息を吐いた。ゴルファーにとって、ミリ単位の傾斜ラインを読む力は文字通りの「命」だ。どの方向にどれだけの勾配があるか、それを脳内で演算し、重力を利用してボールを運ぶ。それが彼らの誇りだった。

しかし今の優樹にとって、かつて愛したゴルフ場の美しい緑は、一歩踏み出せばそのまま奈落へ引きずり込まれる、底なし沼のような「不安定な色」に成り下がっていた。芝の一房一房が自分を拒絶している。空間の座標軸が完全に折れ、空と地面の境界さえ曖昧になっていく恐怖。

そこへ、無骨な足音が近づいてきた。チェ・ジュウォンだ。彼は震える優樹の両肩を、岩のような太い指でがっしりと掴んだ。その力強さに、優樹の身体の揺れがわずかに収まる。

「優樹。地面を見るな。今の地面は、お前を騙し、裏切っとる。……外の景色に頼るから酔う。自分の中にある『芯』を見つけろ」

ジュウォンの声は、咆哮のように低く、優樹の胸に響いた。

「建物と同じや。地震が来ようが地盤が緩もうが、中に一本、揺るぎない『大黒柱』が通っていれば、家は簡単には倒れん。お前の芯を、もう一度打ち直すぞ」

【ジュウォンの杖:三点支持の設計】

ジュウォンは、自分が長年愛用し、現場で身体を支えてきた古い樫の木の杖を、優樹の手の中に無理やり握らせた。

「ええか、優樹。人間は二本の足で立てんのなら、三本目の『足』を作ればええ。この杖を、お前の神経の延長にするんや。これは道具やない、新しい感覚器官やと思え」

優樹は困惑しながらも、その重い杖を震える手で地面に突き立てた。

その瞬間。

杖の先から伝わってきた「コツン」という固い振動。それは、歪んだ視界や狂った三半規管を通さず、手のひらを通じて脳の深部へ直接届く、唯一の「確かな情報」だった。

目で見える「水平」は、もう嘘しかつかない。

けれど、杖を通して伝わってくる「大地の密度」と「硬さ」は、かつて祖母・美津子が指先で確かめた「お稲荷さんの温かさ」や、ジュウォンが木材を叩いて聞いた「命の音」と同じ、一切の装飾を剥ぎ取った真実だった。

杖が地面を捉えるたびに、優樹の脳内に新しい地図が描かれていく。

「……そこが、硬い。……そこが、底だ」

優樹は杖を支えに、ゆっくりと、けれど自分の足で一歩を踏み出した。三点支持。建築において最も安定するその構造が、彼の崩れかけた歩行を繋ぎ止める「くさび」となったのだ。

【誇り高き棄権:プロの幕引き】

翌朝の決勝ラウンド。

会場は騒然としていた。前日の奇跡的なプレーで首位に立ったはずの「佐藤優樹」の名前が、スタートリストから消えていたからだ。

「体調不良か?」「プレッシャーに負けたのか?」と勝手な憶測を飛ばすメディアや観客を背に、優樹はジュウォンと共に、静かに練習場の隅、資材置き場の裏に立っていた。

「……もう、試合には出られない。僕の足は、もう真っ直ぐ歩くことを忘れてしまった。三本足でも、競技としてのゴルフを続けるのは……もう無理だ」

優樹は唇を血が出るほど噛み締めた。プロとしてのキャリア、夢見ていた栄光。それらが指の間から砂のようにこぼれ落ちていく。

しかし、ジュウォンは優樹のその絶望を否定しなかった。彼は優樹の手からそっと、役目を終えたゴルフクラブを取り上げ、代わりに一本の**「ノミ」**を握らせた。

「優樹。歩けなくなった建築士は、座って図面を引く。目が見えんくなった職人は、指先で木を削る。……歩けなくなったゴルファーは、座って『心』を削ればええだけのことや」

ジュウォンは、傍らにあった古びたヒノキの角材を指差した。

「お前が体の中に建てた、あの世界一美しい『放物線の記憶』を、今度はこの木の中に刻んでみんか? 形にして遺せ。それが、お前という人間がこの世に建てた、一番の設計図になるはずや」


夕暮れの作業場。

優樹は、今にも崩れそうな平衡感覚の不安と戦いながら、ジュウォンが用意した作業用の椅子に深く腰掛けた。

樫の杖を隣に立てかけ、彼は目の前の一本の木材と向き合う。

かつての記憶を辿る。

ドライバーを振り抜いた時の、大気を切り裂く遠心力。

向かい風が頬を打つ冷たさと、重い抵抗。

そして、白球が吸い込まれるようにカップに落ち、カランと鳴ったあの至福の音。

優樹はノミを当てた。

削るのではない。彼は、木の中に自分の「スイング」を、そして「ゴルフという名の情熱」を設計し始めたのだ。

一削りごとに、木屑が舞う。

足はもう、フィールドを駆け回ることはできない。歩幅すら覚束ない。

けれど、木を削る手の中には、誰にも汚すことのできない、世界一美しい「弾道」の記憶が脈打っていた。

アルツハイマーの暗雲がすべてを覆い尽くそうとしても、彼が削り出す木目の中には、永遠に消えない「ナイスショット」が刻まれていく。

ジュウォンは、その若者の背中を黙って見つめ、酒を一口煽った。

「……ええスイングやな、優樹」

そこには、ゴルフ場よりも静かで、けれど何よりも激しい、一人の男の「凱旋」があった。


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