第40話:消えた弾道
第4章:ロスト・スイング
第1話:消えた弾道
その男、優樹のゴルフは、一言で言えば「精密機械」だった。
24歳という若さでプロテストをトップ通過した彼が、並み居るベテランたちを凌駕したのは、超人的な「映像記憶」に近い直感があったからだ。一度歩いたコースの芝のうねり、風の吹き抜ける音、池の縁に反射する光。それらすべてを脳内に完璧な3Dモデルとして構築し、正確無比なショットを打ち込む。
「次世代のスター」
ゴルフ界は、若き天才の出現に沸き立っていた。
しかし、一年前の不慮の交通事故が、すべてを暗転させた。
車の大破と共に失われかけた命は、奇跡的に取り留めた。だが、その代償はあまりにも残酷だった。脳への強い衝撃が引き金となり、彼を襲ったのは**「若年性アルツハイマー型認知症」**という、若きアスリートにとって死の宣告に等しい病魔だったのだ。
【練習場:違和感という影】
夏の盛りの午後。
照りつける太陽がアスファルトを焼き、陽炎が揺れる馴染みの練習場に、優樹は一人で立っていた。周囲では、アマチュアゴルファーたちが楽しげにボールを打つ乾いた音が響いている。
だが、優樹だけは、まるで時間の止まった深海に沈んでいるかのような孤独の中にいた。
彼はアイアンを手に取り、いつものようにアドレスに入ろうとした。
しかし、その時、体の芯に走ったのは、得体の知れない「空虚さ」だった。
「……あれ。足の幅、これくらいだったか? ボールの位置は、左足の踵の線上……だっけ?」
何千回、何万回と繰り返してきたはずのルーティン。体の一部となっていたはずの基本動作が、ふとした瞬間に、まるで借り物の衣装を着せられたかのような「他人の動き」に感じられる。足元のマットの線すら、自分を惑わす罠のように見えた。
無理やりスイングを始動する。体幹の強さはまだ健在だ。鋭い風切り音と共に、白いボールが放たれた。
「ナイスショット! 優樹、今の良いドローボールだったぞ。完璧な弾道だ」
傍らで見ていたコーチの明るい声が飛ぶ。
だが、優樹は自分の手元をじっと見つめ、力なく笑うしかなかった。
彼の中では、ボールを打った瞬間の「手応え」も、白球が空のどの位置を通って落ちていったのかという「直前の記憶」も、夏の夕立の後の煙のように、跡形もなく消え去っていたのだ。
自分がいま、どのクラブを振ったのか。どの方向に打ちたかったのか。
脳の回路が、一打ごとにリセットされていく。
【日常のラフ:帰り道の迷路】
練習を終え、更衣室に戻った優樹に、さらなる絶望が襲いかかった。
数分前に荷物を入れたはずのロッカーの番号が、どうしても思い出せないのだ。
手に持っている小さな鍵を見つめてみる。そこには刻印があるはずなのに、その数字が壁に並ぶ扉のどれに対応しているのか、脳が結びつけることを拒否している。
(落ち着け。……落ち着け、俺。事故の後遺症だ、ただの疲れだ。病気のせいじゃない……)
荒い呼吸を整えながら、彼はふと、実家のリビングにある小さな「家の模型」を思い出していた。
それは、亡き祖母・美津子がかつて大切にしていたものだ。認知症を患った彼女が、自分の居場所を見失わないようにと、かつて伝説の職人が作ってくれたという、魂の依り代。
「……おばあちゃん。今の俺、コースのど真ん中で迷子になってる気分だよ。どこにカップがあるのか、どこがティーグラウンドなのかさえ、分からなくなっちゃった」
更衣室の冷たいベンチで、彼は一人、膝を抱えた。
プロゴルファーにとって、コースから地図が消えることは、存在理由そのものを失うことだった。
【運命の交差点:古い木工所】
練習場を逃げ出すように後にした優樹は、気づけば夕暮れの街をフラフラと歩いていた。
足の向くままにたどり着いたのは、かつて活気に溢れていたが、今は若手に引き継がれ、歴史の重みを静かに湛える資料館のようになっている「チェ・ジュウォン工務店」の跡地だった。
そこには、白髪の混じった一人の老人が、潮風に吹かれながら椅子に座っていた。
隠居生活を送りながらも、時折この場所に現れる伝説の職人——チェ・ジュウォンだ。
ジュウォンは、優樹の足取りを見ただけで、その若者の内側に渦巻く「底知れない混乱」を察知した。
かつて共に家を建てたハン・ジアンのように。
光を失いながらも設計図を引いたハン・ヨンジのように。
そして、料理の味で家族を繋ぎ止めた佐藤美津子のように。
この若者もまた、世界という確かな輪郭が自分から剥がれ落ちていく恐怖に、独り震えている。
「……兄ちゃん。ええスイングの形をしとるな。だが、心に『力み』がありすぎる。それでは、狙ったピンには届かんぞ」
ジュウォンの不意を突くような一言に、優樹は足を止めた。
「……目が見えていたって、狙う場所が消えちゃうんです。脳の中に、濃い霧がかかって……昨日までできていたことが、魔法みたいに消えていくんだ」
ジュウォンは何も言わず、ゆっくりと立ち上がった。そして、作業場の隅に転がっていた、使い古された「一本の木の棒」を拾い上げ、優樹に無造作に手渡した。
「目に見える景色が消えるなら、足裏から地面の『鼓動』を聞けばええ。目に見える旗が消えるなら、風の肌触りで距離を測ればええ。……兄ちゃん、あんたの頭は忘れても、その足の裏、指先の皮一枚には、まだプロの記憶が刻まれとるはずや」
優樹は、渡された荒削りの木の棒を、そっと握りしめた。
ゴルフクラブのような洗練されたバランスはない。だが、その無骨な感触は、不思議と彼の震える心に「重り」を置いてくれた。
文字、数字、ロッカーの番号。それらは砂の城のように崩れていく。
けれど、この棒を握りしめた瞬間に感じる、指先の「圧力」。右手の親指が添えられるべき場所。腕の筋肉が、あるべき形に緊張する感覚。
それだけは、まだ自分を見捨ててはいなかった。
「……俺、まだ、打てますか? 記憶が全部消えても、ゴルファーでいられますか?」
優樹の悲痛な問いに、ジュウォンは静かに、けれど鋼のような強さを持って答えた。
「ああ。あんたの体が、コースそのものになるまでな。形あるもんは壊れるが、体に刻んだ『技』は、魂の土台に深く杭を打っとる。それは病気ごときじゃ抜けん」
若き天才ゴルファーと、数多の「記憶の迷子」を救ってきた伝説の職人。
失われていく映像記憶を、指先と足裏に刻み込む「身体の設計図」へと書き換える、優樹の最後にして最大の挑戦が、今まさに始まろうとしていた。
夕闇が迫る街に、優樹が木の棒を振る、鋭い空振り音が一度だけ響いた。




