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潮風の設計図  作者: 水前寺鯉太郎
夕暮れの迷宮

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第39話:手触りの面会室

第3章 第10話:手触りの面会室

季節は巡り、影島の海を思わせる高く澄んだ秋空が、施設の面会室を明るく照らしていた。

窓際の椅子に腰掛け、陽だまりの中でぼんやりと庭を見つめている老女がいた。佐藤美津子だ。かつて凛としてエプロンを締め、家族の健康と家の秩序を守り抜いていたあの厳しい面影は、今や柔らかく、どこか幼子のような無垢な表情へと変わっていた。

「お母さん、来たよ。……わかる? 佳奈だよ」

佳奈が努めて明るい声で語りかけるが、美津子は穏やかに微笑むだけで、言葉は返ってこない。その瞳には、かつて認知症という病と戦っていた頃の激しい「葛藤」も「焦り」も、もはや存在しなかった。ただ、すべてを許し、すべてを忘却の彼方へ流してしまった後のような、なぎの静けさが広がっていた。

【失われた「繋がり」:消えゆく三十年の軌跡】

正治が、震える手で美津子のシワの寄った手をそっと握りしめた。

「美津子、俺だよ。正治だ。……今日は、お前の好きだった秋晴れだぞ。一緒に散歩でもしたいな」

しかし、美津子は不思議そうに、自分の手を握る「知らない男性」を見つめた。彼女は、少しだけ戸惑うように身を引き、丁寧だが他人行儀な会釈をした。

「……こんにちは。……どなた様、ですか? 私に、何か御用でしょうか」

その一言に、正治の胸は張り裂けそうになった。

毎日欠かさず通い続け、毎回「初対面」の挨拶を交わす日々。彼女の世界から、自分と共に歩んだ三十年の歳月が、まるで波に洗われた砂の城のように、跡形もなく消去されてしまったという残酷な現実に、正治はただ立ち尽くすしかなかった。記憶を失った者は、もはや悲しまない。ただ遺された者だけが、共有した時間の重さに押し潰されそうになるのだ。

【ジュウォンの「隠し味」:魂の設計図】

そこへ、一人の男が静かに面会室に現れた。チェ・ジュウォンだった。

彼は無言で正治の肩に手を置くと、持ってきた小さな保温ジャーの蓋をゆっくりと開けた。部屋の中に、懐かしく、甘やかな香りがふわりと立ち込める。

「旦那さん、奥さんにこれを見せてあげなはれ。……言葉も顔も忘れても、魂が『設計』したもんは、そう簡単には消えん。建物と同じや。目に見える外壁が崩れても、その下にある『基礎』は生きとる」

中に入っていたのは、佳奈が母の遺した「手触りのレシピ」を頼りに、ジュウォンが見守る中で何度も作り直した、あの**「お稲荷さん」**であった。

その香りが美津子の鼻孔をくすぐった瞬間、彼女の鼻がピクリと動き、焦点の定まらなかった瞳が、微かに揺れた。

【香りの設計図、起動:数秒の凱旋】

佳奈がお稲荷さんを一つ、小皿に乗せて美津子の手に添えた。

美津子は、それをじっと見つめた。そして、細く震える指先で、お揚げの「かど」をなぞり、そのふっくらとした柔らかさを確かめる。その動作は、かつて自分が何千回、何万回と繰り返してきた、熟練の職人の手つきそのものだった。

「……じゅわっと。……甘いのよね。これ、とってもいい匂い」

美津子が、夢うつつの中で呟いた。

彼女はそれを一口、ゆっくりと口に運んだ。

甘辛い出汁の深い味わい、酢飯の爽やかな香り。そして何より、自分の「指先」が覚え、一生をかけて守り抜いてきた「家族の味」という名の設計図。

その瞬間、生気を失っていた彼女の瞳に、パッと眩いばかりの光が灯った。

彼女は目の前にいる佳奈を、そして泣き崩れる正治をじっと見つめ、そのシワだらけの手を、ゆっくりと、けれど力強く、二人の手の上に重ねたのだ。

「……ああ……。お父さん……。佳奈……。遅かったじゃない……」

それは、時間にしてわずか数秒、神様が与えてくれた束の間の奇跡だった。

すぐに美津子の瞳はまた、穏やかで何も映さない凪へと戻ってしまった。彼女は再び「美味しいお寿司ね」と微笑むだけの、無垢な老女へと還っていった。

けれど、正治と佳奈には、それで十分だった。

たとえ美津子が誰が誰だか分からなくなっても、彼女が心血を注いで築いた「家族の味」が、今度は家族の側から彼女を迎えに来る。その絆がある限り、彼女は永遠に迷子にはならないのだ。

窓の外では、影島の海を思い出させるような、澄み切った青い空がどこまでも広がっていた。

ジュウォンは、再会を果たした家族の背中を見つめながら、静かに面会室を後にした。

「……ええ家(家族)や。どんな忘却の嵐が来ても、この根っこは、一生揺るがん」


数年後。

佳奈の自宅のキッチンには、母から受け継いだ「色と手触りの調味料瓶」が、今も大切に並んでいた。

佳奈は、隣で興味深そうに覗き込む自分の子供に、優しく教える。

「これはね、おばあちゃんが遺してくれた、魔法の瓶なんだよ。文字が分からなくても、心が味を覚えている魔法なの」

形ある建物は、いつか朽ち果て、土に還るかもしれない。

けれど、指先が覚えた温かさ、心が覚えた味、そして「あなたを愛していた」という空気は、消えることはない。それは次の世代へと、静かに、そして力強く「建て増し」されていく。

その精神は、海を越え、時を超え、今日もどこかの食卓で、温かなお稲荷さんの湯気と共に、誰かの心を支え続けている。

人は忘れる。けれど、建物いえは覚えている。

そして、愛は継承される。


【第3章、完】


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