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潮風の設計図  作者: 水前寺鯉太郎
夕暮れの迷宮

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第38話:さよならをするために

第3章 第9話:さよならをするために

八月の終わりの朝日は、残酷なほどに透き通り、佐藤家のダイニングテーブルを白く照らし出していた。

美津子は、いつものように正治と佳奈の前に朝食を並べ終えると、自分は椅子に座らず、腰に巻いていたエプロンの紐をゆっくりと解いた。そして、それをアイロンがけされた布のように丁寧に畳み、テーブルの端に置いたのだ。

それは、三十年間、一日たりとも欠かすことなく続けてきた「佐藤家の主婦」という尊い職務の、静かな返上を意味していた。

「お父さん、佳奈。……私を、施設に入れてちょうだい」

【母の最後の「采配」:遺される者への設計図】

佳奈は持っていた箸を落とし、正治は震える手で湯呑みを握りしめた。

「何を言ってるんだ、美津子。昨日の徘徊のことなら、もう気にしてない。ブザーを新しいのに直せば済む話じゃないか。俺がもっと、お前のことを見ていれば……」

「いいえ、お父さん。そうじゃないの」

美津子の声は、凪いだ海のように穏やかだった。

「昨日ね、暗闇の中をあてもなく歩きながら、私、自分のことが心底怖かったのよ。私が私でなくなることで、あなたたちが持っている『大好きな私』の記憶まで、泥を塗って壊してしまいそうで。……それは嫌なの。私は、最後まであなたたちの自慢の母親で、自慢の妻のままで、笑顔でさよならをしたいのよ」

美津子は、キッチンの引き出しから一冊の厚いノートを取り出し、二人の前に差し出した。

それは彼女が、夜な夜な自分の意識がはっきりしている数時間だけを使って、心血を注いで書き上げた「引き継ぎノート」であった。

そこには、冷蔵庫に乱雑に貼られていた付箋の内容が、項目別に美しく整理されていた。通帳と印鑑の場所、正治の持病の記録と飲み合わせの悪い薬、近所の偏屈な隣人への挨拶のコツ、ゴミ出しの細かなルール。そして最後のページには、佳奈への短いメッセージが、震えながらも丁寧な文字で綴られていた。

『佳奈、お父さんの靴下は二段目の引き出しよ。これからはよろしくね』

それは、主婦という名の現場監督が遺した、完璧なまでの「管理運営マニュアル」であった。

【ジュウォンからの「贈り物」:手のひらの聖域】

数日後、入所の手続きが終わり、荷造りを始めた美津子のもとに、チェ・ジュウォンが小さな木箱を持って訪ねてきた。

「奥さん。……これを、向こうへ持って行きなはれ。あんたの荷物の中では、一番重いかもしれんがな」

ジュウォンが差し出した箱の中から現れたのは、端材のヒノキやスギを組み合わせて作られた、精巧な**「佐藤家の縮尺模型」**であった。

驚くべきことに、その模型は屋根を取り外せるようになっていた。中を覗き込めば、そこには美津子が人生の半分以上を過ごしたリビングがあり、キッチンがあり、冷蔵庫の扉には小さな小さな「黄色い付箋」までが再現されていたのだ。

「向こうへ行って、もしここがどこか分からんくなったり、不安で震える夜があったら、この模型を指でなぞりなはれ。……奥さん、あんたが一生をかけて守ってきた『家』の形は、ここにある。あんたの心から景色が消えても、この木の感触が、あんたの生きてきた証を覚えとる。建物は嘘をつかんからな」

美津子は、模型のキッチンの床をそっと指で撫でた。ジュウォンのゴツゴツとした手から贈られたその模型は、彼女にとって、どんな高級な宝石よりも輝いて見えた。

【最後のお掃除:戦場を去る礼儀】

出発の朝、美津子は誰よりも早く起き、家中の窓を開け放った。

彼女はバケツに水を汲み、雑巾を固く絞ると、家中をピカピカに磨き上げた。自分が去った後に、正治や佳奈が埃っぽさで悲しまないように。

「お父さん、これからは佳奈に甘えるのよ。佳奈、お父さんのこと、本当によろしくね。あんまり飲みすぎさせちゃダメよ」

車が家の前に止まった。

玄関を出るとき、美津子は一度だけ足を止め、住み慣れた我が家を振り返った。そして、深く、深く、腰を折って一礼した。

それは、家族の命を支え続けてきた一人の「名もなき職人」が、自分の戦場を去る時に捧げる、最高級の敬意であった。


施設へ向かう車の中。

美津子は後部座席で、膝の上に置いたジュウォンの模型を、大切な宝物のように抱きしめていた。

窓の外を流れていく見慣れた影島の景色、あるいは日本の住宅街の風景。

ふと、彼女が小さな、掠れた声で歌い始めた。

それは、あの夜、正治が暗闇の玄関で彼女を迎え入れた時に口ずさんだ、あの懐かしいメロディであった。

「……ふふ、いい曲ね、お父さん」

隣でハンドルを握る正治の頬を、堪えきれない涙が伝い、顎からシャツに落ちた。

名前を忘れても、場所を忘れても。二人がこの家で積み上げてきた「愛の震え」だけは、まだ彼女の胸の奥で共鳴し続けていたのだ。

「さよなら」という設計図。

それは、すべてを失うためのものではなかった。

形ある家を離れても、家族の心の中に「永遠に壊れない愛の記憶」を完成させるための、最後にして最も美しい工程であった。

佐藤美津子は、窓の外に見える青い空を見つめながら、穏やかに微笑んでいた。

彼女の指先は、膝の上の模型にある「小さなキッチン」を、今も優しくなぞり続けている。


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