第37話:真夜中の航海
第3章 第8話:真夜中の航海
深夜二時。
世界が深い眠りに沈み、重い静寂が佐藤家の隅々にまで堆積している時間。壁に掛かった古い時計の針が、刻む音だけが、生真面目なメトロノームのようにリビングに響いていた。
寝室の布団から、美津子が音もなく這い出した。彼女の動作は驚くほど軽やかで、迷いがない。しかし、その瞳の焦点は、暗闇の向こう側にある「現実」を捉えてはいなかった。彼女はパジャマの上に、なぜか一番お気に入りだったキャメル色のよそ行きのコートを羽織った。足元はサンダルですらない、室内用のスリッパだ。
彼女の脳内スクリーンに映し出されているのは、現在の自宅の景色ではなかった。それはもっとずっと昔、半世紀も前に、自分が無邪気な子供として「帰るべき場所」だと思い込んでいた、遠い記憶の風景であった。
【玄関の向こう側の異世界:時空の迷子】
美津子は、熟練の職人のような手つきで、音を立てずに玄関の鍵を開けた。
かつて、万が一の事態を恐れた正治が設置した「徘徊防止のブザー」は、今日に限って電池が切れていたのか、あるいは彼女の静かな執念が機械の目を盗んだのか、一度も鳴ることなく虚しく沈黙を守ったままだ。
一歩、外へ踏み出す。
ひんやりとした深夜の空気が、美津子の頬を撫でた。冷たいアスファルトの感触が、薄いスリッパ越しに伝わってくる。だが、彼女は痛みも冷たさも感じていなかった。
「……急がなきゃ。お母さんが、夕飯を作って待ってるわ。遅れると叱られちゃう」
美津子が探しているのは、三十年間守り続けてきた現在の佐藤家ではなく、五十年前、自分がまだ少女だった頃に暮らしていた、瓦屋根の「実家」だった。
角を曲がるたびに、青白く光る街灯が彼女の記憶を複雑に撹乱し、影を伸ばす。彼女はその光の海を泳ぐように、さらに深い記憶の迷宮へと、自ら足を踏み入れていった。
【暗闇の中の遭遇:職人の眼差し】
その頃、街外れの「チェ建築工房」の作業場では、チェ・ジュウォンが深夜まで木材の検品を続けていた。明日納品される予定の良質なヒノキ材を、一枚一枚、月明かりと作業灯の下で撫でるように確かめていたのだ。
静寂の中、ふと、ジュウォンの耳が外の異変を捉えた。
カツ、カツ、カツ……。
規則的ではあるが、どこか力が抜けたような、頼りない足音。それが、工房の前の道を通り過ぎようとしていた。
「……奥さん? こんな時間に、どこへ行かはるんです」
ジュウォンの低く、落ち着いた声が夜の闇を裂いた。
美津子はビクッと肩を震わせ、石のように硬直した。彼女がゆっくりと振り返ったとき、ジュウォンは息を呑んだ。そこに浮かんでいたのは、昨日まで一緒に「手触りのレシピ」を作っていた聡明な主婦の表情ではなかった。一切の理性が消え、ただ「知らない場所で迷子になった子供」のような、純粋で剥き出しの恐怖だけが宿っていたからだ。
「……あの、すいません。駅はどちらでしょうか? 私、帰らなきゃいけないんです。……家族が、待っているんです」
美津子は、目の前に立っている大男が、自分の家のラティスを直してくれたジュウォンだとは気づかなかった。彼女は彼を「真夜中の路上で偶然出会った見知らぬ他人」として認識し、崩れそうな敬語で必死に訴えかけた。その震える手は、コートのポケットを固く握りしめている。
【ジュウォンの静かなエスコート:嘘と真実の境界】
ジュウォンは、その瞳を見ただけで、すべてを察した。
かつて韓国の影島で、師であり友であったハン・ジアンもまた、深夜に突然起き上がり、「設計事務所に行かなきゃ」と裸足で雨の中へ飛び出したことがあった。あの時の絶望的なまでに清らかな狂気を、ジュウォンは片時も忘れたことはない。
「……駅なら、あっちですよ。でもな、奥さん、今はあいにく電車が止まっとる。俺も駅まで行く用事があるんや。俺の車で、駅の近くにある『休憩所』まで送りましょう」
ジュウォンは、彼女の「帰り道」を否定しなかった。今の彼女にとって、否定はさらなるパニックと絶望を呼ぶだけだと知っていたからだ。彼は優しく、けれど確実に、彼女の自宅がある方向へと、ゆっくり歩きながら誘導を始めた。
「奥さん。……あんたが一生懸命探してる『家族』はな、案外、すぐ近くにおるかもしれんよ。案外、あんたの帰りをお茶でも淹れて待っとるかもしれん」
「……そうでしょうか。だといいんですけど。私、本当によく道に迷うもので」
美津子はジュウォンの言葉に少しだけ安堵したのか、小刻みな震えが収まっていった。
【目覚めた正治と、繋がれた手】
佐藤家の前にたどり着くと、そこには異常事態に気づいた正治が、顔を真っ青にして玄関から飛び出してくるところだった。
懐中電灯を振り回し、狂ったように辺りを探していた正治は、ジュウォンに伴われて歩いてくる美津子の姿を見つけた瞬間、その場にへなへなと膝をつきそうになった。
「美津子! 美津子、どこに行ってたんだ! 探したんだぞ!」
正治の悲痛な叫びが、深夜の住宅街に響き渡った。
その声に反応したかのように、美津子の脳内を支配していた五十年前の「実家」の幻影が、薄いガラスが割れるように粉々に砕け散った。
「……お父さん? ……あれ? 私、なんでお外に……。今、お母さんがご飯だって……」
急速に現実に引き戻された美津子の体は、夜風に吹かれて芯まで冷え切っていた。正治は、彼女の言葉を遮るように、壊れ物を扱うような手つきで強く、強く抱きしめた。
「もういい、もういいから……。家に入ろう。冷えちゃっただろう。大丈夫だ、俺はここにいるから」
ジュウォンは、二人が寄り添うようにして玄関へと消えていく背中を、月明かりの下で見送った。彼は持っていた検品用のチョークをポケットにしまい、独り言を呟いた。
「……家を建てるのは一瞬の仕事やが、その家を最後まで守り抜くのは、一生かかる大仕事やな」
リビングに戻り、正治が淹れた温かい麦茶をすする美津子。
ストーブもつけていないのに、家の中の暖かさが、ようやく彼女の感覚を蘇らせていた。
ふと、自分の手元を見ると、強く握りしめすぎて白くなった拳がそこにあった。
「……あら、私、何をこんなに大事に……」
開いた掌の中にあったのは、財布でも、家の鍵でもなかった。
それは、佳奈と一緒に書いた**「お稲荷さんのレシピの切れ端」**だった。
文字は自分の筆跡ですらなく、内容はもう完全には理解できない。けれど、彼女が深夜の迷宮を彷徨い、五十年前の幻を追いかけていた間も、魂の最深部で決して放さなかったのは、家族と自分を繋ぐたった一枚の「味の記憶」だった。
美津子は、そのシワだらけになった紙切れを胸に当て、静かに、本当に静かに涙をこぼした。




