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潮風の設計図  作者: 水前寺鯉太郎
夕暮れの迷宮

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第36話:重なり合う残像

第3章 第7話:重なり合う残像

昼下がりのリビングには、陽だまりのような穏やかな時間が流れていた。美津子は窓際で、陽の光をたっぷりと吸い込んだ洗濯物を一枚ずつ丁寧に畳んでいた。柔軟剤の微かな香りと、遠くで聞こえる近所の子供たちの声。それは、これまでの三十年間、幾度となく繰り返されてきた平和な午後の光景だった。

そこへ、買い物から戻った正治が、玄関の鍵を開けて「ただいま」とリビングに入ってきた。

美津子は、その足音に顔を上げた。しかし、その瞬間に彼女の全身を駆け抜けたのは、安らぎではなかった。それは、見知らぬ男性が土足で聖域に踏み込んできたかのような、鋭く冷たい**「拒絶反応」**であった。

【鏡の中の知らない人】

「……どちらさま、ですか?」

美津子の喉から漏れた乾いた声に、正治は凍りついた。買い物袋を提げたまま、彼は自分の耳を疑った。

「何言ってるんだ、美津子。正治だよ。お前の夫の……正治だろう」

正治が数歩歩み寄ると、美津子の瞳には明らかな怯えが浮かんだ。しかし、数秒の沈黙の後、彼女の脳内で重く垂れ込めていた霧が、風に流されるようにふわりと晴れた。バラバラになっていたパズルのピースが、強引にカチリとはまり込む。

「……ああ、お父さん。ごめんなさい、逆光で顔が見えなかったみたい。冗談よ、冗談。ちょっと驚かせたかっただけ」

美津子はいつものように明るく笑って誤魔化した。だが、正治が背を向けた瞬間、彼女の背中には嫌な汗がじわりと流れた。

顔のパーツは見えている。鼻の形、眼鏡のフレーム、着ている上着の色。すべては視界に入っている。なのに、その視覚情報が「私の夫である正治」という核心的な意味に結びつくまでに、致命的なタイムラグが生じ始めているのだ。

愛しているはずの家族が、一瞬だけ、魂の入っていない「ただの肉体の塊」に見えてしまう恐怖。それは、鏡に映る自分自身に対しても牙を剥いた。洗面台の鏡に映る、目尻に皺を刻んだ見知らぬ老女。美津子はふと、鏡に向かって問いかけてしまう。「この方は、いつまで私の家におられるのかしら」と。

【名前という「いかり」】

美津子は、ジュウォンからもらった色とりどりの付箋ふせんを、今度は「物」ではなく「人」に使い始めた。

それは、忘却の海に流されそうな自分を、必死にこの現世に繋ぎ止めるための、色鮮やかな「いかり」であった。

正治の着替えが入ったタンスの引き出しには、彼の似顔絵と共に大きな字で**『お父さん(正治)』。

たまに遊びに来る孫の服の背中には、彼が振り向くたびに確認できるよう、こっそりと『タカシくん』**。

「お母さん、それ、何してるの? なんでみんなの名札を書いてるの?」

娘の佳奈が、不審に思って尋ねた。美津子は手に持っていたマジックを置き、震える手で自分の胸を強く押さえた。

「佳奈……。私ね、あんたたちの顔が、ときどき『砂嵐』みたいに見えるのよ。目も鼻も口もあるのに、それが誰だか、私の心が思い出してくれないの。……怖い。名前を呼ばなきゃいけないのに、喉の奥で名前が迷子になって、どうしても出てこないのよ」

佳奈は言葉を失い、母の細くなった肩を強く、痛いほど抱きしめた。

「名前なんて、間違えてもいいよ。呼べなくなってもいい。私が何度でも『お母さん!』って呼ぶから、あんたはそっちを向いてくれるだけでいいの。それだけで、私たちは繋がってるんだから」

【ジュウォンの静かな智慧】

その頃、庭でウッドデッキの腐った木材を差し替えていたジュウォンは、開け放たれた窓から漏れ聞こえる母娘の会話を、静かに聞き届けていた。彼は作業の手を止め、ポケットから長年使い込まれた古い真鍮の鍵を取り出し、その重みを掌で確かめた。

「奥さん。……顔が見えんようになったら、形を追うのをやめて、『気配』を感じなはれ」

ジュウォンは、作業着のまま縁側に腰を下ろし、美津子に向かって穏やかに語りかけた。

「職人はな、木の木目が見えんでも、指先で叩いた音の響きだけで、その木が山奥から来たのか、川辺で育ったのかが分かるもんや。形あるものはいつか崩れるが、その奥にある『本質』は変わらん」

そしてジュウォンは、正治に小さな、だが重要なアドバイスを授けた。

「旦那さん。奥さんと目が合ったとき、自分の名前を名乗る前に『昔の二人の合図』を送りなはれ。言葉や顔の造作よりも、もっと深い魂の場所に届く、二人だけの合図を」

正治はその夜から、美津子のいる部屋に入る前、必ず小さく鼻歌を歌うことにした。それは、結婚前、デートの待ち合わせ場所で美津子が「この曲、好きだわ」と言っていた古い映画のメロディであった。


夜、寝室に入ろうとした正治が、ドアの手前で小さく鼻歌を口ずさんだ。

美津子はベッドの中で、一瞬、誰かが近づいてくる気配に身構えた。名前を思い出そうとして、脳の奥がズキリと痛む。

しかし、その懐かしいメロディが耳に届いた瞬間、彼女のこわばった心が、春の雪解けのようにふわりと解けた。

「……あら、お父さん。懐かしい曲ね。あなた、まだ覚えてたの?」

顔と名前が、知覚の表層で一致しなくても。二人が数十年の歳月をかけて積み重ねてきた「音」と「空気の震え」が、記憶の深い断層を軽々と飛び越えて、二人を再び結びつけた。

正治は暗がりの中で、そっと妻の手を握った。

美津子は、キッチンまで歩いていき、冷蔵庫に貼られた無数のメモの中から、文字が掠れかけた『正治』という付箋を、愛おしそうに指でなぞった。

文字が消えても、顔を忘れても。このメロディが鳴る場所に、私の「帰るべき人」がいる。

深い夜の闇の中で、佐藤家の小さな灯火は、絶望を跳ね返すように静かに、けれど力強く燃え続けていた。


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