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潮風の設計図  作者: 水前寺鯉太郎
潮風の設計図

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第4話:構造計算の強制終了

釜山の夜を支配する湿った海風が、高層ビルの間を猛スピードで吹き抜けていく。

建設会社「ハン・コンストラクション」の社長室。重厚なマホガニーのデスクの上に、無慈悲に叩きつけられたのは、計算ミスと矛盾だらけの最新の図面、そしてその横に添えられた、白磁のように冷たい病院からの診断書だった。

「ジアン、もう現場は降りろ。これは、父親としてやない。社長としての、最後通告や」

ハン・ギテクの低い声が、静まり返った部屋に重く響く。一代で会社を築き、娘を「最高の建築士」に育て上げることを人生の指標としてきた男の顔には、隠しきれない疲労と、断腸の思いが深く刻まれていた。

「……嫌や。絶対に降りへん。うちから現場を取ったら、何が残るんよ。うちは図面を引くために生まれてきたんや」

「なら聞くが、お前のその震える手で引いた線に、何人の命が乗っかってると思ってるんや! 鉄筋の数を間違え、荷重の計算を誤り、もし職人に怪我人が出たら? 建物が完成した後に崩れでもしたら、誰が責任を取るんや! 誇りやプライドだけで、人は住める家は建たへんぞ!」

ギテクの怒声が、社長室の窓ガラスを震わせる。ジアンは唇を血が滲むほど噛み締め、震えが止まらない右拳を隠すように、無理やり背中に回した。

「……治す。補修工事するみたいに、うちの脳みそも、もう一度やり直す。欠落した部分を補って、また完璧な図面を……」

「治らんから言うとるんや! 現実を見ろ! お前はもう、建築士としては……『欠陥品』なんや!」

父の口から放たれたその言葉。建築を愛し、構造の美学を共有してきた親子にとって、それは人格を否定するよりも残酷な、完全なる拒絶だった。「欠陥」という言葉は、ジアンが最も恐れ、最も忌み嫌ってきた概念だった。

ジアンの顔から一気に血の気が引き、幽霊のように真っ白になる。彼女は言葉を失い、父を射抜くような視線で睨みつけた。反論する力さえ奪われた彼女は、踵を返し、一言も発さずに社長室を飛び出した。

【深夜のコンビニ:喉を焼く孤独】

夜の釜山の街は、ネオンの光が海霧に反射して、どこか幻想的で不安定な雰囲気を漂わせていた。

ジアンは自分がどこを歩いているのかも判然としないまま、吸い込まれるように、街角で強烈な白い光を放つコンビニへと足を踏み入れた。

棚に並ぶ色とりどりの商品を眺めるが、そのラベルに書かれた文字が、一瞬、幾何学模様のように見えて焦燥感に駆られる。

「何を買うつもりやった……? 牛乳か? パンか?」

記憶の引き出しが錆びついて開かないような、もどかしい恐怖。彼女は逃げるように冷蔵庫のコーナーへ向かい、そこに並んでいた**「赤い缶コーラ」**を、ひったくるように手に取った。

レジを済ませ、自動ドアを出る。

プシュッ、と小気味良い音が静かな夜道に響き、炭酸の泡が弾ける。

ジアンはそれを、喉を焼くような勢いで一気に流し込んだ。

強烈な炭酸の刺激と、過剰なまでの甘み。それが、麻痺し、消えかかっている自分の「感覚」という名の回路を、無理やり叩き起こしてくれるような気がした。

「……はぁ。甘苦あまにがいな。……鉄の味みたいや」

コーラを飲み干し、ふと手の中の空き缶を見つめる。

その時、ジアンの脳内に、奇妙なノイズが走った。

店内に忘れられた「誰かの荷物」が気にかかるような、あるいは、自分が買ったはずの「何か」をレジに置き忘れてきたような、得体の知れない違和感。

「……うち、何しに来たんやっけ。コーラ買うだけ……やったか?」

飲み終えたばかりの缶を見つめ、ジアンは混乱する。

「コーラを買って、外に出て、飲んだ」

その一連の動作、つい数秒前の出来事の「記憶の糸」が、指の間からするりと抜け落ちていく。まるで、インクが乾く前に消しゴムで強く擦られたかのように、経験した事実が色彩を失っていく。

「うち……飲んだんか? これ、誰の缶や?」

混乱が加速し、呼吸が浅くなる。冷たいアスファルトの上で立ち尽くす彼女の背後から、重低音のエンジン音が近づき、サイドスタンドを立てる鋭い金属音と共に止まった。

眩しいライトの残像の中に浮かび上がったのは、仕事帰りの、油と木の匂いを纏ったチェ・ジュウォンだった。

「ハン設計士。こんなとこで何ボケっとしとる。……顔、ぐちゃぐちゃやぞ。現場でコンクリートでも被ったか?」

ジュウォンはバイクを降り、ジアンの持っている空き缶を無造作に奪い取ると、横のゴミ箱へ投げ捨てた。放り込まれた缶が「カン」と乾いた音を立てる。

その音で、ジアンはようやく今日初めて、肺の奥まで空気を吸い込めたような気がした。自分という存在を繋ぎ止めてくれる「他者」の存在が、これほどまでに切実だったことはない。

「ジュウォンさん……。コーラ、もう一本、買うてきて」

強気な「釜山の女建築士」の仮面が完全に剥落し、ジアンの大きな瞳に、溢れんばかりの涙が溜まっていく。

「……うち、飲んだかどうか、わからんくなってしもた。さっきまで手に持ってたのに、味が、思い出されへんのよ」

ジュウォンは何も言わなかった。励ましの言葉も、同情の視線も、今の彼女には余計なノイズでしかないことを、この無骨な職人は本能で理解していた。

彼はもう一度コンビニへ入り、自動ドアを抜けて戻ってくると、新しく買ったばかりの、冷えたコーラの缶をジアンの頬に、不器用な優しさで押し当てた。

「ひゃっ……つめたい」

「冷たいやろ。……その『冷たい』っていう感覚は、今お前がここで生きてる証拠や。脳みそが何を忘れようとしても、皮膚が覚えとる感覚だけは嘘をつかへん。……覚えとけ。この冷たさが、今のハン・ジアンや」

ジアンは、頬に押し当てられた缶の温度を、噛み締めるように受け入れた。

感覚の消失という恐怖の海で、ジュウォンの差し出したその「冷たさ」は、どんな精巧な図面よりも確かな、彼女の人生の新しい「基準点ベンチマーク」となった。

「ジュウォンさん……」

「ついてこい。お前の居場所は、社長室やない。俺の作業場や」

バイクのエンジンが再び咆哮を上げる。ジアンは、自分の手の甲に書かれた「私はハン・ジアン」という掠れかけた文字を見つめ、ジュウォンの背中に縋るようにバイクに跨った。

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― 新着の感想 ―
xから来ました。 王都の静かな日常から始まりながらも、主人公が抱える違和感や過去の出来事の影が少しずつ浮かび上がり、周囲の人々との会話や生活の描写を通して世界観が自然に広がっていく構成が印象的で、特に…
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