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潮風の設計図  作者: 水前寺鯉太郎
潮風の設計図

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第3話:綻び(ほころび)

 病院での宣告から数日。ジアンは周囲の制止を文字通り力ずくで振り切り、何事もなかったかのように影島の現場に戻っていた。

「私はプロだ。病気なんかに図面を引かせてたまるか。脳が多少バグを起こしたところで、二十年叩き込んできた指先が忘れるはずがない」

 朝の冷水で顔を洗い、鏡の中の自分を睨みつける。いつも以上に深くヘルメットを被り、顎紐を皮膚に食い込むほど強く締めた。そうしなければ、内側から瓦解しそうな自分を繋ぎ止めておけなかった。

 現場に立つジアンは、これまで以上に苛烈に職人たちを締め上げた。だが、その強がりは薄氷のように脆く、破滅へのカウントダウンは確実に刻まれていた。

 午前中の定例会議。ジアンは工程の確認のため、大型の構造図を事務所の机いっぱいに広げた。

 いつもなら、青い紙を目にした瞬間に頭の中で立体像が完璧に立ち上がり、淀みなく指示が溢れ出すはずだった。

 だが、その日は違った。白い線を視線で追った瞬間、脳の奥で強烈なノイズが弾けた。

「……ここの、ええと……この……」

 言葉が喉の奥でつかえる。

 柱と梁を繋ぐ接合部、横揺れを支える補強材の名――何千回、何万回と口にしてきたはずの専門用語が、白い霧の向こう側へ急速に遠のいていく。

「ハン監理員。ガセットプレートの、高力ボルト接合のことですか?」

 ベテランの施工担当者に先を越され、ジアンの顔が屈辱で朱に染まった。

「……解っています! 今言おうとしていたんです。横から口を挟まないでください!」

 怒声で押し通したものの、耳元で心臓が破裂しそうなほど打ち鳴らされていた。言葉が出てこない。自分を「特別な存在」として定義してきた専門用語という武器が、手のひらから砂のように滑り落ちていく。

 事故が起きたのは、その日の午後だった。

 コンクリート打設を明日に控えた、重要な配筋検査の最中。切り立ったコンクリート壁の足場で、ジアンはコンベックスを伸ばし、鉄筋の間隔と「かぶり厚さ」を計測していた。

 カチカチと音を立てる金属テープ。そこに刻まれた目盛りが、西日を受けてぐにゃりと波打つ。

(……四百ミリ。いや、三百五十……?)

 数字が形を失い、ただの「縦線」の羅列に見える。

「ハン監理員、配筋検査のサイン、いただけますか? もうミキサー車の手配は完了してます」

 焦る現場監督の声。ジアンは額に冷や汗を浮かべながら、手元の検査シートにペンを走らせた。

「おい。待て」

 背後から、低く掠れた声が飛んだ。

 鉄骨の陰から現れたのは、作業着の袖を捲り上げたチェ・ジュウォンだった。彼は無言でジアンの手からコンベックスをひったくると、鉄筋の隙間に突っこんだ。

「ハン設計士。お前、さっきから目盛りを逆に読んでるぞ」

「……!」

 ジアンの全身から血の気が引いた。

「被り厚が五十ミリも足りねえ。このままコンクリ打ち込んだら、数年で鉄筋が錆びて爆裂を起こす。……お前、本気で言ってるのか?」

 ジュウォンの瞳に宿っていたのは、怒りではなく、底知れぬ静寂だった。それが何よりも恐ろしかった。

「な……何を言っているの。私が……そんな初歩的なミスをするわけが――」

「目を見ろ」

 ジュウォンが静かに、だが腕を強く掴んでジアンを凝視した。

「自分の使ってる道具の目盛りすら読めなくなったなら、そこが引き際だ。ここはお前の自尊心を保つための遊び場じゃねえんだよ。建物が倒れたら、人が死ぬんだ」

 ジュウォンの言葉は、どんな毒舌よりも鋭い刃となってジアンの胸を抉った。

「……引き際なんてない」

 ジアンの声が震えた。

「私は死ぬまで建築士だ……! ここを追い出されるくらいなら、あのコンクリートと一緒に固められた方がマシよ……!」

 荒い息を吐き、涙を必死に堪えるジアンを、ジュウォンはただ見つめていた。やがて、彼は握りしめていたコンベックスをジアンの手の中に強引に握らせた。

「なら、俺の目を使え」

「……え?」

「お前が引いた図面は、もう俺の頭の中に入ってる。お前の目が曇って目盛りが読めねえなら、俺が現場で測ってやる。俺の指先はな、お前が徹夜して引いた線の寸法を全部覚えてんだよ」

 ジュウォンは無骨な手で、ジアンのヘルメットの傾きを無造作に直した。

「一人で消しゴムと戦うな。建物は一人じゃ建たねえ。現場ってのはそういうもんだろ」

 ジアンは言葉を失った。

 自分を哀れむのでもなく、排除するのでもない。欠けた部分を己の技術で補うと言い切る、職人の粗削りな誠実さ。

 作業が終わり、誰もいなくなった夕暮れの現場。

静寂が包む鉄骨の森の中で、ジアンは一人、ショベルカーの陰に佇んでいた。

 ポケットから油性の太字マジックを取り出す。

震える左手を広げ、手の甲にペンの先を押し当てた。皮膚に強い圧力が加わり、黒いインクが肉に食い込んでいく。

強い筆圧で、太く、力任せに刻みつける。

『私はハン・ジアン。一級建築士。』

 忘れたくない。

この屈辱も、鉄の匂いも、沈みゆく影島の海の青さも。

目に見えない消しゴムにすべてを削り取られる前に。せめてこの皮膚の上にだけは、己が存在したという絶対的な座標を刻んでおきたかった。

マジックのつんとくるツンとした刺激臭が鼻を突く。

手の甲に浮かび上がった無骨な黒い文字。

それこそが、崩れゆく彼女の王国に残された、最後の一本の杭だった。

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