第2話:構造欠陥の宣告
釜山の朝は、いつも通り無遠慮な活気に溢れているはずだった。
港からは大型船の重い汽笛が響き、影島の急勾配を走るバスのエンジン音が鼓膜を揺らす。だが、ハン家の食卓には、窓から差し込む朝日さえ跳ね返すような、湿り気のある重苦しさがまとわりついていた。
「ジアン。昨夜、ジュウォンに送らせたそうだな。一体、何があった」
建設会社を一代で築き上げた父、ハン・ギテクが、広げた新聞から目を切らずに問う。
戦後の影島で、岩盤を穿ち、不法占拠の板もん小屋を叩き壊して会社をデカくしてきた男だ。いつもなら資材の高騰や現場の進捗について怒号を交わす朝食の時間だったが、今日の父の声には、底知れぬ亀裂を隠そうとする歪みがあった。
ジアンは黙ってスープを口に運ぶ。
スプーンが磁器の縁に当たり、カチカチと乾いた音を立てた。その指先が、意志に反して微かに震えている。彼女はそれを悟られまいと、膝の上で左手を強く握りしめた。
「……少し、飲み過ぎただけです。影島の連中の酒に付き合わされて」
「嘘をつくな。お前が酒で潰れたことなど一度もない。だいたい、あのジュウォンがわざわざ俺に電話をかけてきたんだぞ。『お嬢様の様子がおかしい。顔色が土色だ』とな。あの偏屈が気を遣うなど、尋常じゃない」
ジアンは静かに匙を置いた。喉の奥に、昨夜の中央駅で味わった「恐怖」が蘇り、胃を雑巾のように絞り上げる。
「……ただの過労です。新プロジェクトの構造計算が詰まっているだけ。お父さんには関係ありません。現場のことは、私が一番解っています」
椅子を引いて席を立つ。だが、一歩踏み出した瞬間、床がぐにゃりと歪んだように感じられ、ジアンは思わず壁に手をついた。昨日、世界の座標を失ったあの不気味な感覚。それが今も足裏に澱のように沈殿し、平衡感覚を狂わせている。
*
数日後。ジアンは父と叔母に連れられ、釜山大学病院の長い廊下にいた。
無機質な白い壁、鼻をつく消毒液の臭い。合理的で美しい構造体を愛するジアンにとって、病院とは「欠陥を抱えた人間が集まる、最も不効率な場所」だった。
「私は病気ではありません。図面の引きすぎで目が疲れているだけです」
待合室のプラスチック椅子で、ジアンは吐き捨てるように言った。
その手には、愛用のコンベックス(メジャー)が握られている。親指でストッパーを押し、スチール製のテープを数センチ出し入れする。シュ、パチン。シュ、パチン。規則的な金属音が静かな廊下に響く。それは、崩れ落ちそうな彼女の自尊心を繋ぎ止める、唯一の鼓動だった。
『ハン・ジアンさん。診察室へお入りください』
呼び出しに応じ、重い扉を開ける。
診察室の奥。モニターには、ジアンの脳のMRI画像が白黒の影として映し出されていた。
医師は手元の問診票――ジアンが先ほど受けた、簡単な図面模写テストで無残に線を歪ませた用紙――に目を落としたまま、淡々と事実を告げた。
「……海馬および側頭頭頂葉の萎縮が、年齢に対して極めて顕著です。立体の空間把握能力の著しい低下、および直近の記憶障害。若年性アルツハイマー型認知症と診断せざるを得ません」
一瞬、部屋の中の空気が完全に凍りついた。窓の外で鳴く蝉の声が、真空の向こう側に遠ざかっていく。
「……アルツハイマー?」
ジアンの口から乾いた声が漏れた。その言葉の響きがあまりに非現実的で、どこか遠い国の「欠陥建築」の名称のように聞こえた。
「先生、私は建築士です。一ミリのズレも許されない精密な世界で生きているんです。空間認識ができない? 脳が萎縮している? そんなバカな計算ミス、構造的にあり得ません」
「ジアン、落ち着きなさい……」
父が震える手で肩に触れようとしたが、ジアンはその手を力任せに振り払った。
「何かの間違いです! 検査機器の精度を疑ってください! 私の脳の構造計算をやり直してください! どこに欠陥があるんですか!? 補強すれば治るんですか!? 鉄筋を入れるんですか、コンクリートを流し込むんですか!? 言ってください! 施工不良なら、やり直せば済む話でしょう!?」
建築士としての、そして影島の風土で育った職人の娘としての叫びが、悲鳴となって診察室に響き渡る。
今まで積み上げてきた人生という名の巨大な構造物が、土台から音もなく崩壊していく音だった。
医師は哀れむでもなく、ただ不可逆の物理法則を見つめる科学者の目でジアンを見た。
「ハンさん。これは、部品を交換して修繕できるような構造物ではありません。あなたがこれまで築き上げてきた『記憶』という名の支柱が、一本ずつ、不可逆的に消滅していく病気です」
ジアンはモニターに映る、己の脳の「穴」を凝視した。
それは、完成間近のビルが内部の鉄骨を失い、自重に耐えきれずゆっくりと自壊していく、最悪のシミュレーション画像だった。
「……消しゴムだ」
ぽつりと呟いた。震えていた手から力が抜け、握りしめていたコンベックスが床に落ちて、乾いた金属音を立てた。
「誰かが……私の人生を、消しゴムで消そうとしているんだ」
病院の外に出ると、港を臨む釜山の青い海が視界に飛び込んできた。
いつもなら「あの水平線に対して、どのようなスカイラインを描くべきか」と血を滾らせる景色。だが今は、その広大さがただただ残酷に、己の存在の儚さを嘲笑っているように感じられた。
「ジアン……とにかく、一度家に戻って……」
父の痛切な声を無視し、ジアンは足元に落ちたコンベックスを拾い上げた。
そして、親指でストッパーを解除し、銀色のスチールテープを限界まで引き出した。一メートル、二メートル……限界まで伸び切ったピンと張りつめた金属の線。
ジアンは指を離した。
――パチン!!
耳を劈くような凄まじい音を立てて、伸び切ったテープが一瞬でケースの中へと巻き戻り、消えた。
一瞬だ。
どんなに長く伸ばした線も、指一本で瞬時に「ゼロ」に戻される。
その鋭利な金属音を聞いた瞬間、ジアンの瞳から絶望の色が消え、代わりに惨憺たる拒絶の炎が燃え上がった。
(このまま、消されてたまるか)
(全部が真っ白な灰になる前に……私がここに存在したという証を、この地球の表面に刻み込んでやる)
*
その夜。
ジアンは家族の目を盗み、一人、誰もいない影島の建設現場へと向かった。
月明かりに照らされた鉄骨の森。潮風が吹き荒れる無造作な現場の奥に、一筋の紫煙が立ち上っていた。
油臭いショベルカーのバケットに腰をかけ、黙々とタバコを吹かしている男――チェ・ジュウォンの姿があった。
彼は、ジアンがここに来ることを端から知っていたかのように、ゆっくりと顔を上げた。
「……お嬢様。病院で、どんな大層な設計図を貰ってきたんだ?」
ジュウォンのぶっきらぼうな問いに、ジアンは答えず、ただまっすぐに彼の前に立った。
荒々しい影島の海風が、二人の間に残された、まだ消されていない貴重な時間の匂いを運んでいた。
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