第2話:構造欠陥の宣告
釜山の朝は、いつも通り活気にあふれているはずだった。
港からは大型船の汽笛が響き、影島の急勾配を走るバスのエンジン音が唸りを上げる。だが、ハン家の食卓には、窓から差し込む朝日さえも拒絶するかのような、重苦しい湿り気がまとわりついていた。
「ジアン、昨日、ジュウォン君に送ってもらったんやってな。一体、何があったんや?」
建設会社を一代で築き上げた父、ハン・ギテクが、広げた新聞を置かずに問いかける。いつもなら、現場の進捗や資材の価格高騰について激しい議論を交わすはずの朝食の時間だが、今日の父の声には、鋭い追及というよりも、底知れぬ不安を隠そうとする響きがあった。
ジアンは黙ってスープを口に運ぶ。
スプーンが皿の縁に当たり、カチカチと乾いた音を立てる。その指先が、自分の意志に反してわずかに震えていた。彼女はそれを悟られまいと、膝の上で左手を強く握りしめた。
「……ちょっと、飲みすぎたんや。現場の連中と景気づけにな。影島の奴らは酒が強くてかなわんわ」
「嘘言いな。お前、酒には誰より強いやろ。だいたい、あのジュウォン君がわざわざうちまで連絡してきたんやぞ。『お嬢様、顔色が土色やった。様子がおかしい』ってな。あいつがそんな気を遣うなんて、よっぽどのことや」
ジアンは箸を置いた。喉の奥に、昨夜の地下鉄ホームで感じた「無」の感覚が蘇り、胃を締め付ける。
「……ただの疲れや。次のプロジェクトの構造計算が難航しとるだけ。父さんには関係ない。現場のことはうちが一番わかってる」
ガタン、と椅子を鳴らして席を立つ。だが、その足取りはどこか危うく、一瞬、床が波打ったように感じて壁に手をついた。昨日、世界が剥がれ落ち、座標を失ったあの一瞬の感覚。それが今も胃の底に澱のように沈殿し、彼女の平衡感覚をかき乱している。
数日後。ジアンは父と、そして心配して駆けつけた叔母に半ば強引に車に押し込まれ、釜山大学病院の廊下にいた。
長く続く廊下、無機質な白い壁、鼻をつく消毒液の匂い。
合理的で機能的な空間を愛するジアンにとって、ここは「最も非効率で、停滞した場所」だった。
「うちは病気やない。設計図の引きすぎで目が霞んどるだけや。ちょっと休めば済む話やろ」
待合室の硬い椅子で、彼女は毒づくように言った。その手には、無意識に愛用のコンベックス(メジャー)が握りしめられている。親指でストッパーを押し、金属製のテープを数センチ出し入れするカチカチという規則的な音が、静かな廊下に響く。それは、彼女の崩れそうな自尊心を繋ぎ止めるための、唯一のリズムだった。
「ハン・ジアンさん、診察室へお入りください」
看護師の声に呼ばれ、重い扉を開ける。
診察室の奥。モニターには、ジアンの脳の断層写真が白黒の影として映し出されていた。
医者はカルテに目を落としたまま、淡々と、しかしこの上なく残酷な事実を口にした。
「……海馬の萎縮が、顕著に見られます。若年性アルツハイマー型認知症。残念ながら、今の段階ではそう診断せざるを得ません」
一瞬、部屋の中の空気が完全に凍りついた。窓の外で鳴いていた蝉の声さえ、遠い世界の出来事のように聞こえなくなった。
「……アルツハイマー?」
ジアンが乾いた声で繰り返す。その言葉の響きがあまりに非現実的で、自分とは無関係な「欠陥住宅」の名称のように思えた。
「先生、うちは建築士や。ミリ単位のズレも許されへん、精密な世界で仕事しとるんや。脳みそがボケるなんて、そんな冗談、構造的に通用せえへん」
「ジアン、落ち着きなさい……」
父が震える手で彼女の肩に置いたが、ジアンはその手を強く、拒絶するように振り払った。
「先生、これ、何かの間違いやろ!? 機械の故障や。うちの脳みその構造計算、もう一度やり直してや。どこに設計ミスがあるんや? 補強すれば治るんか? 鉄筋を入れるか? コンクリートを流し込むか!? 言うてや! 欠陥があるなら、直せばええだけのことやろ!」
建築士としての、そして職人の娘としての叫びが、悲鳴となって診察室に溢れ出す。それは、今まで築き上げてきた自分の人生という名の「塔」が、足元から崩れていく音だった。
医者は静かに首を振った。その目は哀れみではなく、抗いようのない物理的限界を見つめる科学者の目だった。
「これは、部品を取り替えて修繕できるようなものではありません。ハンさん。徐々に、あなたがこれまでの人生で築き上げてきた『記憶』という名の柱が、一本ずつ、音もなく消えていくんです。そして、最後に残るのは、出口のない空白だけかもしれません」
ジアンはモニターに映る、自分の脳の「影」を凝視した。
それは、完成間近の巨大なビルが、内部の支柱を失い、自重に耐えきれず土台から音もなくゆっくりと崩壊していく、その最悪のシミュレーションを見ているようだった。
「……消しゴムや」
彼女はぽつりと呟いた。震えていた手から力が抜け、コンベックスが床に落ちて鈍い音を立てた。
「誰かが、うちの人生を消しゴムで消しにかかっとるんやな。真っ白にして、なかったことにしようとしとるんや」
病院の外に出ると、釜山の青い海が目に飛び込んできた。
いつもなら「あの水平線に合わせて、どんなスカイラインを引こうか」と胸を躍らせるはずの景色。だが今は、その広大さがただ、果てしなく残酷に、自分のちっぽけさを嘲笑っているように感じられた。
「ジアン……とりあえず、家に帰ってゆっくり……」
父が気遣うように声をかけるが、ジアンは答えなかった。
彼女は床に落ちたコンベックスを拾い上げると、親指で最大まで、限界まで引き出した。シュルシュルと鋭い音を立てて伸びる金属。そして、指を離すと、パチンと耳を劈くような大きな音を立てて、それは一瞬でケースの中に巻き戻された。
消える。一瞬で。すべてが。
その鋭利な金属音を聞きながら、ジアンの瞳に、絶望とは別の、燃えるような拒絶の光が宿った。
(このまま消されてたまるか。全部消える前に……記憶が真っ白な灰になる前に、私は私の証を、この世に刻みつけてやらなあかん)
その夜。
ジアンは家族の目を盗み、一人、誰もいない影島の建築現場へと向かった。
月明かりに照らされた鉄骨の森。重機が眠る静寂の中に、一筋の煙が立ち上っていた。
ショベルカーのバケットに腰をかけ、無造作にタバコを吹かしている男――チェ・ジュウォンの姿があった。彼は、ジアンがここに現れることを予感していたかのように、彼女を一瞥した。
「……お嬢様。病院で、ええ設計図でも貰ってきたんか?」
ジュウォンのぶっきらぼうな問いに、ジアンは答えず、ただ彼の前に立った。潮風が、二人の間に残された、まだ消されていない時間の匂いを運んできた。
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