第1話:設計図の空白
「※本作には医学的な描写が含まれますが、あくまで物語上の演出であり、実在の症例、治療法、医療機関を推奨・否定するものではありません。専門的な判断については必ず医師の診察を仰いでください。」
釜山、影島。
そこは、荒々しい海風と潮騒が絶えず斜面を駆け上がる、起伏の激しい島だ。
迷路のように入り組んだ路地と、重なり合うように建つ古い家々。その不安定な地形をねじ伏せるように、新しいマンションの巨大な骨組みが天を突いていた。
「おっちゃん! そこの三段目、鉄筋の結束が甘い! やり直しや!」
轟音と埃が舞う工事現場の真っ只中、凛とした、けれど礫のような鋭い声が響く。
ヘルメットを深く被り、色褪せた作業着の腰に重厚なコンベックス(メジャー)を下げた女――ハン・ジアンは、垂直に切り立ったコンクリートの壁を凝視していた。彼女はこの現場を仕切る建設会社の令嬢でありながら、誰よりも泥臭く現場を這いずり回る「一級建築士」だった。
「ジアンお嬢様、そんな数ミリのズレ、誰も気づきまへんて。雨が降り出す前にコンクリ流してしまわんと」
ベテランの鉄筋工が、額の汗を拭いながら苦笑いする。だが、ジアンは耳に挟んでいた鉛筆を手に取り、鉄筋の交差部分をコンコンと叩いた。
「建物は嘘つかへん。人間はごまかせても、重力と時間はごまかせへんのや。基礎が歪んだら、何十年後かにここに住む誰かが泣くことになる。うちが引いた線に、一ミリの妥協も許さへん」
彼女にとって、図面とは「聖書」であり、世界を支配する絶対的な「ルール」だった。
複雑な計算式によって導き出された柱が立ち、設計通りに空間が切り取られていく。物理法則と美学が完璧に調和したその秩序の中にいる時だけ、ジアンは自分がこの世界の一部であると実感し、深く呼吸をすることができた。
「……やり直しや。結束線、もう一回締め直して。うちが納得するまで、コンクリのミキサー車は入れさせへんから」
職人たちは不平を漏らしながらも、彼女の「正論」に宿る圧倒的な熱量に圧され、再び腰を落とした。ジアンはその背中を見届け、ようやく一つ、長い息を吐いた。
現場を後にした時、港の向こうにはとっくに日が落ちていた。
影島の急勾配を下り、ジアンはいつものように南浦洞へと向かう地下鉄に揺られていた。
夜の地下鉄の車窓は、暗いトンネルの中に自分の疲れ切った顔を鏡のように映し出す。カバンの中には、明日チェックする予定の新プロジェクトの青図がずっしりと入っている。その重みが、今の彼女にとっては唯一の「錨」だった。
ガタン、ゴトン。
ガタン、ゴトン。
地下鉄の規則的なリズム。鉄と鉄が擦れる摩擦音。
ジアンは軽く目を閉じた。まぶたの裏には、明日立ち上がるはずの壁のラインが、CADの画面のように青白く浮かび上がる。
(明日は、あのエントランスの収まりを確認して……あそこのディテールは、もう少し光を採り込めるように変更した方がええかな……それから……)
思考は整然と整理され、脳内のフォルダに収納されていく。
彼女の頭脳は、完璧な「設計室」だった。
「次は、中央、中央駅です。降り口は右側です……」
車内放送の乾いた声に、弾かれたように目を開ける。
ジアンは手慣れた動作で立ち上がり、開いたドアからホームへと降り立った。
だが、その瞬間だった。
「……え?」
一歩、踏み出した右足が、どこにも着地していないような奇妙な浮遊感に襲われた。
視界が急激に歪む。
まるで、カメラのレンズを急激にズームアウトさせた時のように、世界が自分から遠ざかっていく。
見慣れたはずの、中央駅のホーム。
壁に貼られた宣伝ポスター、行き先を示す黄色い看板、天井を縦横に走る配管のライン。
それらは数秒前まで「駅の風景」という確かな意味を持っていた。
しかし今、ジアンの目に映っているのは、ただの**「意味を持たない図形と色の塊」**だった。
「ここ……どこや?」
呟いた自分の声が、見知らぬ誰かの声のように聞こえた。
ジアンは周囲を必死で見渡す。
毎日、朝と晩に必ず利用している、自分の庭のような場所だ。
なのに、どちらに行けば改札があるのか、自分が今どの方向に進んでいるのかが、全くわからない。空間を三次元で把握する能力が、波に洗われた砂の城のように、音もなく崩れ落ちていく。
(落ち着け。ハン・ジアン。あんたは建築士やろ。構造を考えろ。中央駅は島式ホームで、北側に1番出口があって……)
必死に脳内の「地図」を広げようとする。
しかし、そこにはインクをぶちまけたような真っ白な空白が広がっているだけだった。
記憶の断片を手繰り寄せようとするたび、それは指の間からサラサラとこぼれ落ちていく。
冷たい汗が、背中を一本の筋となって伝う。心臓の音が耳元で早鐘を打つ。
彼女は震える手でカバンを開け、丸められた図面を引っ張り出した。
プロとして、これさえあれば、自分という座標を確認できるはずだ。この「線」こそが、自分の存在証明なのだから。
しかし、震える指で広げたその青い紙に並ぶ線と数字を見た瞬間、ジアンの全身から血の気が引いた。
「……なんで?」
あんなに愛し、あんなに執着してきた図面。
そこに記された断面図も、構造計算の数値も、今のジアンにとっては古代の未知の言語、あるいは子供が無造作に書きなぐった「落書き」にしか見えなかった。
図面が読めない。
建築士にとって、それは「死」を意味する。
職人としての誇り、二十数年かけて積み上げてきた専門知識、自分を形作ってきたすべてのアイデンティティが、目に見えない巨大な「消しゴム」で、力任せにゴシゴシと消されていく。
「嘘や。こんなの、おかしい……」
ジアンはホームのベンチに力なく座り込んだ。
周囲を歩く人々は、誰も彼女の異常に気づかない。皆、自分の「目的地」を知っている顔をして、足早に通り過ぎていく。
自分だけが、世界の法則から弾き飛ばされ、透明なカプセルの中に閉じ込められたような孤独。
彼女は図面ケースを、まるで唯一の救命ボートであるかのように、強く、壊れるほど抱きしめた。
その時。
コツ、コツ、と重い安全靴の音が近づき、彼女の目の前で止まった。
作業着のポケットに両手を突っ込み、ぶっきらぼうにジアンを見下ろしている男。
現場で「狂犬」と恐れられ、ジアンと何度も激しい口論を繰り返してきた荒くれ者の大工、チェ・ジュウォンだった。
「おい、ハン設計士。こんなところで何ボケっとしとるんや。終電まで図面と心中でもする気か?」
耳に突き刺さるような、野太く、無愛想な声。
いつもなら「うるさいわ、現場のゴミでも拾ってなさい!」と言い返すはずの言葉が、出てこない。
ジアンは、ゆっくりと顔を上げた。
視界が涙で滲む。
ジュウォンの、日焼けしてシワの刻まれた、無骨で「現実的」な顔。
その顔を見た瞬間、ジアンの中で張り詰めていた最後の糸が、ぷつりと切れた。
彼女の瞳から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
「ジュウォン……さん……」
震える声。
「うち……帰り道が……わからんくなってしもた……」
強気で鳴らした「釜山の鉄の女」が、迷子の子供のように肩を震わせて泣いている。
そのあまりに異様な光景に、ジュウォンは言葉を失った。
罵詈雑言を浴びせられる覚悟をしていた彼は、差し出した手のやり場に困り、ただ彼女の小さな震えを、じっと見つめることしかできなかった。
地下鉄の入り口から、港の夜風が吹き込んできた。
それは、すべてを消し去っていく「忘却」の冷たさと、微かな「潮の匂い」を運んでいた。
記憶の空白シリーズ第二弾です。舞台は韓国にしてみました。
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