第5話:未完の家を建てよう
コンビニの夜、頬に押し当てられたコーラ缶の冷たさは、ジアンの麻痺しかけた神経に微かな火を灯した。しかし、現実は容赦なく彼女の領域を侵食していく。
解雇と同義の「無期限休職」を言い渡され、ジアンは影島の自宅に引きこもっていた。
かつて数千人の命を預かる巨大な高層建造物を指揮してきた彼女にとって、現場を奪われることは呼吸を止められるに等しかった。父から叩きつけられた「現場に立っていい人間ではない」という言葉が、鋭いガラス片となって脳の奥深くに突き刺さっている。
だが、絶望の深淵にあっても、彼女の指先だけは鉛筆を握ることを拒まなかった。
深夜二時。
ジアンは手垢と汗で汚れ、紙の表面が毛羽立つほど何度も消しゴムで擦られた製図用紙を抱え、影島の急勾配を登っていた。
目的地は、影島最南端に近い、誰も見向きもしない高台の荒れ地。かつて朝鮮戦争の避難民が、岩盤の上に板切れを重ねて命を繋いだ不確実な土地の記憶が残る場所だ。
風が吹き荒れるその高台には、月光を背負って佇む一人の男がいた。足元に大工道具の入った重い麻袋を置き、黙々とタバコを吹かしているチェ・ジュウォンだった。
彼は、ジアンがここに現れることを端から確信していたように、ゆっくりと視線を向けた。
「……遅かったな、ハン設計士」
ジアンは返事をせず、震える手で抱えていた一本のロール図面を彼に突き出した。
「……私が、すべてを失って空っぽになる前に。最後に建てる家です」
ジュウォンは無言でタバコを靴底で踏み消すと、図面を受け取り、月光にかざして広げた。
そこに描かれていたのは、巨大なビルではなく、風に耐えるように低く構えた一軒の小さな平屋だった。
段差を排除したアプローチ。壁の随所に配置された、手を伸ばしやすい高さの手すり。視界を遮らず、影島の海を一望できる低い開口部。
そこには、認知症を宣告されたジアン自身が、「未来の、何も解らなくなった自分」のために用意した、痛切なまでの慈愛と工夫が刻まれていた。
だが、図面を凝視していたジュウォンの眉間が深く寄った。
「……構造計算の数値が噛み合っていない。柱のピッチも、耐震壁の配置も狂ってる。お前の頭の中のCADは、もう正常に動いちゃいねえな」
「解っています……!」
ジアンの絞り出すような叫びが、夜の潮風に千切れた。
「数字が逃げていくの……! 書き留めた傍から、目に見えない消しゴムで消されていく……! でも、これは私の……私がこの地球の上に生きていたという、最後の証明なんです……! 誰の指示でもない、私だけの……!」
叫びは涙に変わり、ジアンは膝から砕け散りそうになった。
ジュウォンは、力なく揺れる彼女の肩を掴み、力任せに立ち上がらせた。そして、畳んだ図面を彼女の胸に強く押し当てた。
「なら、俺が建てる」
「……え?」
「お前が引いたこの歪んだ線を、俺が現場で全部、この手で形にしてやる。数値が狂ってるなら俺が現場で叩き直す。お前の頭が忘れても、俺の腕がお前の意図を全部汲み取ってやる」
ジュウォンの声には、これまでの無愛想さとは違う、鋼のような確信が宿っていた。
「だが、条件がある。最後まで俺と一緒に現場にいろ。逃げ出すことは許さん。お前が引いた不格好な一本一本の線に、俺が命を吹き込むのを、横で最後まで見届けろ。記憶がどうとか病気がどうとか関係ねえ。それが職人の意地だろ」
ジアンの目から、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出した。
自分を排除しようとした父。
「お気の毒に」と哀れみの視線を向けた医師。
誰もが彼女の「終わり」を前提にする中で、ただ一人、この男だけは彼女を対等な「現場の人間」として、戦う相手として扱ってくれた。
「ジュウォンさん……私、恐ろしいの……昨日まで覚えていたことが、今日解らなくなるのが……自分が誰かも解らなくなっていくのが……」
「目に見える数字や記号は消えるかもしれねえ。だがな、この木の手触り、槌を打ち込む振動、影島の土の匂い……身体に叩き込んだ感触は、死ぬまでお前の骨にこびりついて離れねえよ。俺がそれを、お前の体に打ち込み直してやる」
ジュウォンは無骨な手で、ジアンの濡れた頬を乱暴に拭った。
「道具を持て、ハン設計士。明日から俺たちの現場だ。ハン・ギテクに見つかる前に、この影島の岩盤の上に、世界で一番頑丈な『記憶の砦』を建てるぞ」
*
翌朝。
釜山の海が、地平線から鮮やかな朱色に染まり始めていた。
影島の急斜面、岩と土が露出した無造作な敷地に、二人の影があった。
愛用のコンベックスを腰に下げ、背筋を伸ばしたジアン。
そして、重い大工道具を肩に担ぎ、最初の一本となる角材を運ぶジュウォン。
ジアンは冷たい地表にひざまずき、土と岩の感触を確かめるように指先を深く突き刺した。脳ではなく、皮膚の奥底にこの感触を刻みつけるために。
ジュウォンは大ハンマーを振り上げ、境界線の角に置いた太い杭を力任せに叩き込んだ。
ガキィン、カキィン!!
硬い岩盤に杭が刺さり、影島の朝の静寂に鋭い槌音が轟いた。
それは、忍び寄る忘却に対する明確な反逆の合図であり、二人がこの世に刻む、新しい構造体の始まりだった。
ジアンは、手の甲に書かれた『私はハン・ジアン』という文字を一瞥し、コンベックスのストッパーを解除した。
「……水準測量(墨出し)を始めます。チェ職人、遅れないでついてきてください」
「へいへい。設計士先生、お手柔らかに頼みますよ」
朝日の直射光の中、二人の新しい「戦い」が、影島の土を力強く蹴って始まった。
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