第33話:空白の診断書
第3章 第4話:空白の診断書
夏の盛りを過ぎたはずの午後の陽光は、病院の白い待合室を容赦なく照らし出していた。
佐藤美津子は、消毒液の匂いが漂う硬い長椅子に座り、膝の上でハンドバッグの取っ手を、指先が白くなるほどぎゅっと抱え込んでいた。
隣に座る娘の佳奈は、さっきから一言も発さず、スマートフォンの画面を食い入るように見つめている。画面の反射で、佳奈の瞳には「アルツハイマー」「初期症状」「介護保険制度」といった、これまでの穏やかな家族の語彙には存在しなかった冷たい言葉が次々と映し出されていた。
「……佳奈、もう帰りましょう? 私、今日は頭がとってもはっきりしてるの。昨日の火の不始末だって、ただの不注意よ。誰にだってあることじゃない」
美津子が、逃げ出す口実を見つけた子供のような幼い声で立ち上がろうとした、その時だった。
「佐藤美津子さん、中へどうぞ」
看護師の事務的な声が、逃げ道を塞ぐように響いた。
【診察室:崩れる自尊心の城】
診察室の空気は、外の廊下よりも数度低く感じられた。
デスクを挟んで座る医師は、穏やかだが、すべてを見透かすような澄んだ瞳をしていた。彼は美津子の緊張を解きほぐすように、世間話に近いトーンでいくつかの質問を始めた。
「美津子さん。今日は何月何日か、覚えていますか?」
美津子は、背筋をピンと伸ばした。ここで間違えるわけにはいかない。主婦として、カレンダーと時計に支配された三十年を生きてきたのだ。
「今日は……8月の、15日……お盆の時期ですから。そう、15日かしら」
「惜しいですね、美津子さん。今日はもう20日ですよ」
医師は否定するのではなく、優しく事実を置いた。美津子の喉が、かすかに震えた。
「そう……そうだったかしら。最近、日が経つのが早くて」
「では、少し頭の体操をしましょう。100から7を順番に引いていってください」
その瞬間、美津子の顔から、さっと潮が引くように血の気が引いていった。
いつもスーパーのチラシを比較し、家計簿をきっちり一円単位までつけていた美津子。電卓を使わずとも、レジに並んでいる間に合計金額を言い当てるのが得意だった美津子。
「100から、7……。93。……93から、7……ええと、93引く、7……」
暗い深い穴の中に、数字を落としてしまったようだった。いくら覗き込んでも、次に来るべき「86」という数字が浮かんでこない。
佳奈は隣で、爪が掌に食い込むほど拳を握りしめていた。代わりに応えてあげたい、数字を耳元で囁いてあげたい。でも、それが今の母にとって、致命的な一撃になることも分かっていた。
「……分かりません。もう、いいでしょう? こんなこと、何の意味があるんですか」
美津子の声は、怒りと情けなさが混ざり合い、ひどく震えていた。医師はそれ以上追及せず、静かに一枚のMRI画像と、さきほどの知能テストの結果を並べた。
【宣告:主婦という名の「現場」からの退場】
「アルツハイマー型認知症。画像を見る限り、初期から中期へと差し掛かっている段階です。……美津子さん、あなたがこれまで必死にメモを書き、どれほどの恐怖と戦ってこられたか、このデータからもよく伝わってきますよ」
医師の言葉は、残酷な宣告であると同時に、孤独な戦いを続けてきた美津子への、初めての「理解者」としての労いでもあった。
美津子は、溢れそうになる涙を堪えるために、わざと顔を上げて医師を真っ直ぐに見つめた。
「先生……教えてください。私は、いつまで『お母さん』でいられますか? いつまで、包丁を握って家族を養ってもいいんですか?」
「それを決めるのは、病気ではありません。あなたと、隣にいらっしゃるご家族です。……美津子さん、記憶が完全に形を変えてしまう前に、あなたにとって『一番大切なもの』を整理しておきましょう。それは、これからの人生という建物を支えるための、新しい設計図になります」
【帰り道の公園:冷たいアイスクリームと熱い誓い】
病院を出ると、湿った風が二人を包んだ。
二人はどちらからともなく、近くのコンビニでアイスクリームを買って、古びた公園のベンチに座った。
昨日、美津子がキッチンの床に放置してドロドロに溶かしてしまったのと同じ、バニラのアイスクリーム。
「……お母さん、ごめんね。無理やり病院なんて連れてきて。嫌だったよね」
佳奈が、隣で溶け始めたアイスを見つめながら謝ると、美津子は一口、冷たい塊を口に含み、静かに首を振った。
「いいのよ。……本当はね、分かってたの。冷蔵庫に貼ったあの無数のメモが、自分でも何が書いてあるか分からなくなって……あれが私への『遺言』みたいに見えるようになってたから」
美津子は、使い古されたバッグの中から、一冊の古いノートを取り出した。
それは、佳奈が嫁ぐ時に渡そうとして、数年前から書き込み、結局、途中で止まっていた「レシピノート」だった。
「佳奈、お母さんね。お稲荷さんの味だけは、指が、筋肉が覚えているうちに全部書き上げたいのよ。……でも、さっきのテストみたいに、いつか数字が書けなくなっちゃう。お醤油が何ミリなんて、記号に見えてしまうのが怖いの」
「大丈夫だよ、お母さん。数字は私が書く。分量は私が計る。お母さんは、横で『お醤油をこれくらい』って、手で教えてくれればいいから。お母さんの感覚を、私が文字にするから」
夕暮れの公園。遊具の影が、地面を這うように長く伸びている。
美津子は、食べ終えたアイスの棒をじっと見つめ、何かを決意したように顔を上げた。
「佳奈。……お父さんには、お母さんから話すわ。あの方、私がいなくなったら、自分の靴下がどこにあるかも分からないんだから。最後まで、ちゃんと教育しておかないとね」
美津子の瞳には、病への底知れない恐怖を越えた、三十年「主婦」という現場を守り続けてきた者としての、誇り高い覚悟が宿っていた。
記憶は消えても、家族を愛する「職人」としての本能は、まだ誰にも譲るつもりはなかった。




