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潮風の設計図  作者: 水前寺鯉太郎
夕暮れの迷宮

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第34話:心の「不法占拠」

第3章 第5話:心の「不法占拠」

病院からの帰り道、世界は昨日までと何ら変わりない表情をしていた。

夕暮れの住宅街には夕飯を支度する匂いが漂い、遠くで犬が吠える声が聞こえる。佐藤家の玄関を開ければ、そこには使い慣れた流し台があり、少しだけ生地の薄くなったソファが置かれ、廊下には正治が脱ぎ散らかした靴下が一本、寂しそうに転がっている。

しかし、美津子にとって、その見慣れた光景のすべてが、今や自分を試そうと待ち構える「罠」のように見えていた。

【「まだ、できる」という抗い:歪んだ完璧主義】

「私は、認知症なんかじゃない……。お医者さまだって人間よ、間違いを犯すことくらい、いくらでもあるわ」

翌朝、美津子は目を覚ますと同時に、自分自身にそう言い聞かせた。昨日、診察室で「100から7」が引けなかったあの空白の時間は、夏の暑さが見せた一時の幻覚に違いない。彼女はそれを証明するかのように、いつも以上に完璧な、いや、過剰なまでの家事をこなそうと躍起になった。

「ほら、見て。佳奈、お父さん。私、こんなに動けるのよ。昨日のは、ただの夏バテだったの。心配しすぎなのよ」

美津子は、普段は手を出さない換気扇の分解掃除に取り掛かり、腰を屈めて庭の隅々まで草をむしり、台所では何種類もの常備菜を同時に作り始めた。必死に笑顔を作り、立ち働くその姿は、まるで「主婦」という名の要塞を守る孤独な兵士のようであった。

しかし、その必死の努力は、皮肉にも現実との「ズレ」を無情に大きくしていくだけだった。

換気扇を掃除しようと意気込んだものの、外したネジをどこに置いたか忘れてしまい、戻し方が分からなくなる。

庭の雑草を抜くはずが、隣で大切に育てていた花の苗まで一緒に引き抜き、無惨な土の塊にしてしまう。

そして、夕食のための「きんぴらごぼう」を作っている時。彼女は無意識のうちに、砂糖と塩の壺を混同し、真っ白な結晶を大量に鍋へと注ぎ込んだ。

「……おかしいわ。こんなはずじゃないの。私の手、どうしちゃったの……?」

【正治の沈黙と美津子の叫び:無言の刃】

夕食のテーブル。佳奈はどこか落ち着かない様子で箸を動かし、正治はテレビのニュースを無言で見つめていた。

美津子が自信満々に出した「きんぴらごぼう」を、正治が一口食べた。

瞬間、正治の箸が止まった。

口の中に広がるのは、ゴボウの風味をすべて消し去るほどの強烈な塩辛さ。だが、彼は眉をひそめることも、水を求めることもしなかった。ただ、何も言わずに、そっときんぴらの小皿を脇に避け、白米だけを口に運んだ。

その「無言の気遣い」が、美津子には何よりも残酷な鋭利な刃となって、心臓の奥深くに突き刺さった。

「……何か言ってよ! 不味いなら不味いって言って! 普段みたいに『塩っぱいぞ』って怒ってよ!」

美津子は椅子を蹴るようにして立ち上がり、泣きながら叫んだ。

「病気だなんて思いたくないの。お母さんでも、奥さんでもない、ただの『壊れた機械』みたいに扱われるのは嫌なのよ! 腫れ物に触るみたいなその目、やめてよ!」

正治はゆっくりと立ち上がり、震える美津子の肩に手を置こうとした。だが、彼女はその手を烈火の如き勢いで振り払った。

「かわいそうだなんて、思わないで。哀れまれるくらいなら、怒鳴られた方がマシよ。私は、まだここにいるわ。……まだ、何一つ失ってなんかいないんだから!」

【雨上がりの工務店:ジュウォンの眼差し】

感情を爆発させたまま家を飛び出し、夜の冷え込み始めた街を歩き回った美津子が辿り着いたのは、またしてもあの「チェ建築工房」の前であった。

ジュウォンは、作業場に散らばった木屑を古びた箒で払いながら、雨上がりの湿った風に当たっていた。

「……奥さん。自分の心が自分を裏切っていくちゅうのは、どんな大きな『設計ミス』よりも辛いもんですな」

ジュウォンは美津子の顔を見ず、ただ夜の闇を見つめて言った。その声には、憐れみではなく、同じ「現場」に立つ者としての共感があった。

美津子は暗闇の中で、消え入りそうな震える声で漏らした。

「……受け入れられないんです。昨日まで当たり前にできていたことが、魔法みたいに一つずつ消えていくのが。……私が『私』じゃなくなるのが、怖くて、怖くてたまらない」

ジュウォンは少しの間を置いてから、使い込まれて刃の短くなった古いカンナを美津子の前に差し出した。

「見てな。この道具も、刃がこぼれれば何も削れんようになります。でもな、奥さん。研ぎ直せばまた使えるようになる。あるいは、削り方を変えればええだけや。……奥さんは壊れたんやない。今までとは違う『新しい形』になろうとしとるだけですよ」

「新しい、形……?」

「そうや。今までのやり方にしがみつくから苦しい。今の自分に合った、新しい『設計図』を書き直せばええ。俺ら建築屋は、傾いた家を壊すだけが仕事やない。その傾きに合わせて、どう住みこなすかを考えるんも仕事や」

美津子は、ジュウォンのゴツゴツとした、節くれだった大きな手を見つめた。

その手は、かつて韓国の影島で、記憶を失いながらも家を建て続けた若者の背中を支えてきた手であった。

美津子は、自分の両手をじっと見つめ直した。

指先には、まだ醤油とごぼうの匂いが微かに残っている。

受け入れることは、自分に負けることではないのかもしれない。それは、変わりゆく自分という建物を、もう一度補強して生きていくための「最初の工事」なのかもしれない。

だが、そう素直に思えるには、まだこの夏の夜の静寂はあまりに短すぎた。

美津子は、ジュウォンが持っていたカンナの柄にそっと触れた。木の冷たさが、逆上した心に心地よく沁み渡っていった。


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