第32話:焦げ付いた夏休み
第3章 第3話:焦げ付いた夏休み
八月の午後の空気は、逃げ場のない熱を孕んで街を包み込んでいた。
「お母さん、ただいま! 暑かったわよー、今年の夏は異常ね」
玄関のドアを開け、元気よくリビングに入った娘の佳奈の足を止めたのは、鼻を突く、あの独特の嫌な臭いだった。
「……何の匂い? お母さん、何か焦げてない!?」
佳奈が靴も揃えず台所へ駆け込むと、コンロの上で真っ黒に干からびた「何か」が、不気味な煙を上げていた。かつては煮物だったであろうその塊は、もはや食材としての原形を留めていない。
しかし、美津子はそのすぐ横の食卓に腰掛け、虚ろな目でぼんやりと団扇を動かしているだけだった。すぐ鼻先で上がっている煙にも、異様な臭いにも、全く気づいていない様子だ。
「お母さん! 火!」
佳奈が悲鳴を上げて火を止め、換気扇を強に回す。
「……あら、佳奈。いつ来たの? 今、お茶を淹れようと思ってお湯を沸かしていたのよ。ちょうどよかったわ」
美津子は穏やかに微笑む。その表情はいつもの優しい母親そのものだ。だが、彼女の足元には、昨日買ったばかりのアイスクリームが買い物袋に入ったまま放置され、ドロドロに溶けて床に醜い染みを作っていた。
【娘の確信と、母の「盾」】
その夜、佳奈は父・正治をベランダに呼び出した。網戸越しに聞こえる鈴虫の声が、かえって家の中の沈黙を際立たせる。
「お父さん、お母さん絶対におかしいよ。冷蔵庫のあの異常なメモの量も、今日のアイスも火の不始末も。……あれはもう、ただの物忘れじゃないわ。明日、私が病院に連れて行くから」
正治は暗い夜の街を見つめたまま、力なく頷くしかなかった。
しかし、翌朝。
病院へ行こうと優しく切り出した佳奈に対し、美津子はこれまでに見たことのないような、激しい拒絶の反応を見せた。
「病院なんて行かないわよ! 私はどこも悪くないわ。佳奈、あんた失礼よ、母親をボケ老人扱いして! 恥ずかしくないの!」
美津子はエプロンの紐をちぎれんばかりにきつく締め直し、必死に「いつもの有能な主婦」を演じようと掃除機を手に取った。
ガガガ、と床を擦る音だけが響く。だが、掃除機のコンセントは壁から抜けたままだ。彼女はそれに気づくことさえできず、ただ空しくヘッドを床に滑らせ、虚空を吸い込み続けている。
「お母さん、落ち着いて。一度検査してもらうだけだから、ね?」
「嫌よ! 病院なんかに行ったら、私はもう『私』じゃなくなっちゃう気がするの。……お父さんのご飯も、佳奈が帰ってきた時に作ってあげるお稲荷さんも、全部作れなくなっちゃう……!」
美津子は掃除機を放り出し、キッチンに座り込んで子供のように声を上げて泣き始めた。
自分の脳内で何かが音を立てて崩れていることを、誰よりも美津子自身が一番分かっていた。分かっているからこそ、それを「病名」という冷たい言葉で確定させてしまうことが、怖くてたまらなかったのだ。
【ジュウォンの静かな助言】
そこへ、庭の壊れたラティスを直しに来ていたチェ・ジュウォンが、勝手口から静かに声をかけた。彼は手にしていた金槌を置き、静かに美津子の目線まで腰を下ろす。
「奥さん。病院は『自分を失くしに行く場所』やなくて、『今の自分を一日でも長く守るための、作戦を立てる場所』ですよ」
ジュウォンは、かつて影島でジアンやヨンジが、病院の帰りにどれほどの絶望を抱え、それでも一歩を踏み出そうとしたかを、その背中で見てきた。
「……俺の知り合いに、設計図が引けなくなっても、指先の手触りだけで家を建てた奴がいました。あんたなら、たとえレシピを忘れたとしても、指先が覚えている『家族の味』で味付けができるはずだ。そのためには、まず敵の正体を知らなあかん」
ジュウォンの不器用だが芯の通った言葉に、美津子は少しだけ肩の震えを止めた。
佳奈は母の泥のついた手を握り、そっと寄り添った。
「お母さん。お稲荷さんの味、私、まだ半分も教わってないよ。完全に忘れる前に、二人で一緒に『世界に一つだけのレシピ本』を作ろう? お願い」
美津子は涙を拭い、震える手で、冷蔵庫に貼られた無数のメモの中から、まだ何も書かれていない一枚の白紙を手に取った。
「……そうね。佳奈に……教えなきゃね。佐藤家の味を」
外では、遠くの空で夕立を予感させる重い雷鳴が響いていた。
それは、佐藤家にとって長く、そして避けては通れない「忘却との戦い」の季節が、本格的に幕を開けたことを告げる音であった。




