第31話:冷蔵庫のポストカード
第3章 第2話:冷蔵庫のポストカード
翌朝、佐藤家のキッチンは、いつも通りの穏やかな朝日が差し込んでいた。定年退職して以来、ゆっくりと新聞を読むのが日課となっていた正治は、コーヒーを淹れようと席を立ち、ふと、冷蔵庫の前で足を止めたのだ。
その光景は、昨日までとは明らかに一変していた。
【増殖する「忘却への抵抗」】
以前の冷蔵庫といえば、町内会のゴミ収集カレンダーや、近所の水道修理業者のマグネットが数枚貼ってある程度の、殺風景な場所であった。
しかし今、目の前にある冷蔵庫の白い扉は、びっしりと敷き詰められたカラフルな付箋とメモ用紙で、元の色がほとんど見えないほどに埋め尽くされているのだ。
『お米は3合、水は目盛り通りに』
『正治さんの高血圧の薬は、朝食後』
『ガスコンロ、火の元、絶対確認!!』
『卵、冷蔵庫にまだある。買わないこと』
中には、全く同じ内容が書かれたメモが何枚も重なり、めくれ上がっている。
正治は、その情報の奔流に圧倒されながら、戸惑いを隠せずに尋ねた。
「美津子、これ……ずいぶん賑やかになったもんだな。そんなに一度に覚えることが増えたのか?」
何気ない、軽い冗談のつもりであった。だが、朝食の味噌汁を作っていた美津子の背中が、まるで冷たい水を浴びせられたかのように、ビクッと激しく跳ねたのを正治は見逃さなかった。
「ええ……。年ね、最近うっかりが多くて困っちゃうわ。こうしておかないと、なんだか落ち着かないのよ。……ほら、お父さんに迷惑かけたくないし」
美津子は振り返り、無理に口角を上げて笑ってみせた。しかし、その手は野菜を切る包丁を不自然なほどぎこちなく握りしめ、指先はわずかに震えている。正治は、その笑顔の裏側に、言いようのない「必死さ」が張り付いているのを感じ、胸の奥がチリりと痛んだのだ。
【隠された「空白」】
正治が喉の渇きを覚えた。麦茶を取り出そうと冷蔵庫のドアを開けると、そこにはさらなる異様な光景が広がっていた。
ドアポケットの最前列に、全く同じメーカーの「マヨネーズ」が、未開封のまま三本、綺麗に整列して並んでいるのだ。
昨夜、街角で立ち往生していたところを工務店の男――ジュウォンに送り届けられた際、美津子は「買い物袋を落として中身が分からなくなったから、少し混乱しただけ」と、済まなそうに説明していた。正治はその言葉を額面通りに受け取り、「夜道は危ないからな」と労ったのだ。
しかし、冷蔵庫の中に重複して詰め込まれた食材たちは、彼女が「何を持っているか」という直近の事実さえ把握できなくなっている、残酷な現実を突きつけていた。
「美津子、マヨネーズなら奥にもう一本あったぞ。昨日も買ってきたのか?」
「……あら、そうだったかしら。安かったから、つい、ね……」
美津子はコンロの方を向いたまま、小さな声で答えた。
その背中が、正治には以前よりずっと小さく、少し指で突けば粉々に砕けてしまいそうな、危うい硝子細工のように見えたのだ。
【工務店からの「忘れ物」】
その時、玄関のチャイムが鳴った。
怪訝に思いながら正治がドアを開けると、そこには昨夜の恩人、チェ・ジュウォンが立っていた。作業着姿の彼は、この住宅街の風景には少し不釣り合いなほど、古武士のような重厚な空気を纏っている。
「朝早くにすんません。これ、昨日奥さんが店に忘れていったもんです。……大事なもんやと思って、届けに来ました」
ジュウォンが差し出したのは、小さな、角が少し丸まった**「家族写真のポストカード」**であった。
そこには、二十年以上前、まだ現役バリバリで働いていた頃の正治と、若々しい美津子、そして今は結婚して遠方の街で暮らす娘の、眩しいほどの笑顔が写っていた。
裏を返すと、今にも消え入りそうな震える文字で、『私の大切な宝物』とだけ記されている。
ジュウォンの鋭い視線は、玄関から廊下越しに見える、あの付箋だらけの冷蔵庫へと注がれた。
「旦那さん。……メモが増えるのはな、奥さんが、あんたと過ごした『時間』の端っこを、必死で繋ぎ止めようとしとる証拠ですよ」
正治は、その言葉の意味をすぐには咀嚼できなかった。ただの物忘れ、年相応の衰え。そう自分に言い聞かせ、防波堤を築いていたのだ。
しかし、預かったポストカードを冷蔵庫のメモの隙間――『火の元注意』と『卵』のメモの間に――そっと貼ったとき、彼は気づいてしまった。
このメモの山は、美津子の「愛情」の形であると同時に、彼女が今立っている「忘却の崖っぷち」からあげる、声にならない悲鳴なのだと。
【止まった思考】
正治がリビングに戻ると、美津子はコンロの前で、お玉を握ったまま石のように立ち尽くしていた。
鍋からは湯気が立ち上り、ジャガイモがコトコトと音を立てて踊っている。
「……お父さん。これ、肉じゃが。……味付け、お醤油、もう入れたかしら?」
美津子は、助けを求めるような、迷子の子どものような瞳で正治を見つめた。
鍋の中には、白く剥かれたジャガイモが、味のつかない透明な湯の中で静かに煮立っているだけだ。
冷蔵庫のすぐ目の前に貼られた、『お醤油は大さじ3杯』という黄色いメモ。
それは今の彼女にとって、内容を伝える伝言板ではなく、もはや何の役にも立たない、ただの「色のついた紙切れ」という記号に変わり始めていたのだ。
正治はお玉をそっと彼女の手から取り、震える肩を抱き寄せた。
「いいんだ、美津子。醤油なら、これから二人で入れればいいんだから」
キッチンの窓から差し込む朝日は、昨日と変わらず明るい。
しかし、二人の足元には、長く、深い「影」が音もなく忍び寄り始めていたのだ。




