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潮風の設計図  作者: 水前寺鯉太郎
夕暮れの迷宮

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第30話:消えた帰り道

第3章:夕暮れの迷宮

第1話:消えた帰り道

佐藤美津子、五十八歳。彼女の人生を一言で表すなら「堅実」という言葉が相応しい。

どこにでもいる、家族思いでしっかり者の主婦。それが彼女の誇りであり、日常のすべてであった。

その日も、彼女はいつもと変わらぬ穏やかな午後を過ごしていた。夕飯の献立を頭の中で組み立てながら、近所のスーパーで手際よく品物を選んでいく。

「今夜は、夫の好きな肉じゃがにしようかしら……。あ、そうね、白滝を忘れてたわ」

手に取った白滝の冷たさを感じながら、彼女は微笑んだ。結婚して三十年、夫の正治が喜ぶ顔を見るのが、彼女にとっての幸せの物差しだった。

レジを済ませ、両手にずっしりと重いビニール袋を提げてスーパーを出たのは、午後五時。

空には燃えるような茜色が広がり、カラスが鳴きながらねぐらへと帰っていく。それは、世界中のどこにでもある、あまりにもありふれた、平和な夕暮れ時だった。

【異変:見慣れたはずの景色の崩壊】

スーパーの角を曲がり、いつもの郵便局の前を通り過ぎたとき。

ふと、美津子の足が、何かに捕まれたかのようにピタリと止まった。

「……あら?」

道が、二つに分かれている。

右へ曲がるべきか、それとも左へ行くべきか。

毎日、それこそ三十年間、欠かすことなく通い続けてきたはずの道だ。目をつぶっていても歩けると思っていたその場所が、突然、見たこともない「知らない国の街角」のように見えたのだ。

「おかしいわね。あそこのタバコ屋さんの角を曲がれば、うちが見えるはずなのに」

美津子は軽く首を振った。少し疲れているだけだ、そう自分に言い聞かせて焦って歩き出した。しかし、歩けば歩くほど、景色は悪夢のように歪み、彼女の記憶のピースと一致しなくなっていく。

さっき通り過ぎたはずの児童公園が、なぜか再び目の前に現れる。

さっき追い越したはずの、黄色い帽子を被った小学生が、また後ろから同じ足音を立ててやってくる。

世界がループしているのか、それとも自分の頭が狂ってしまったのか。

時間は無情に過ぎ、美津子の焦りをあざ笑うかのように、茜色の空は冷たく暗い群青色へと沈んでいった。

【家族の不在と、重い買い物袋の呪縛】

「美津子さん、遅いな……」

自宅では、数年前に定年退職した夫・正治が、バラエティ番組の音を背に時計を眺めていた。

「今日は特売日だって言ってたから、レジが混んでるのかな。それにしても遅すぎる」

正治はまだ、日常の延長線上にいた。まさか、自分の妻が家からわずか数百メートルの場所で、出口のない迷宮に閉じ込められているとは夢にも思わずに。

その頃、美津子は街灯の下で、まるで糸の切れた人形のように立ち尽くしていた。

両手のビニール袋が細い指に食い込み、激しい痛みが走る。中に入った大根や牛乳、そしてあの白滝が、まるで巨大な鉛の塊のように重く感じられた。

「ここはどこ……? 私は、何を買いに来たんだっけ。家には、誰が待っているの……?」

脳の中で、大切に保管されていた「人生の地図」が、端からチリチリと燃え落ちていく。

家族の顔、朝食べたものの味、自分の名前の響き。それらが一枚、また一枚と闇に溶けて消えていく。美津子は、自分が誰なのかも、どこへ行くべきかも分からないまま、夜の深淵に飲み込まれそうになっていた。

【運命の再会:影島の記憶を継ぐ男】

フラフラと幽霊のように歩き、たどり着いたのは、街外れの古びた「工務店」の前であった。

看板には、日本語で「チェ建築工房」と控えめに記されている。

そこには、韓国・影島ヨンドから日本に拠点を移し、静かに余生を送りながら若手を育てている、あのチェ・ジュウォンの姿があった。

ジュウォンは、看板の明かりの下で、途方に暮れて小刻みに震えている女性の姿を見つけた。

その瞳に宿った、深い「虚無」と「孤独」。

それを見た瞬間、彼の脳裏には二十年前のジアン、そして数年前の愛弟子・ヨンジの姿が鮮烈に蘇った。この瞳を、俺は知っている。世界から切り離され、記憶という足場を失った人間の瞳だ。

「奥さん。……そこ、行き止まりだ」

ジュウォンの重みのある低い声が、夜の静寂を破った。

その一言は、美津子にとって、暗闇の中で差し出された唯一の救いの手だった。彼女は持っていた荷物を地面に落とし、糸が切れたようにその場に泣き崩れた。

「……分からないんです。帰る場所も、自分が誰なのかも……全部、消えてしまった。何もかも、思い出せないんです……」

街灯の下、地面に散らばったジャガイモと玉ねぎ。

ジュウォンは何も言わず、腰を屈めてそれを一つ一つ丁寧に拾い上げ、泥を払って袋に戻した。そして、彼女の指を赤く染めていた重い袋を、代わりにひょいと持ち上げた。

「……大丈夫だ。俺が知っている『家』まで、送ってあげる」

ジュウォンが言った「家」とは、単なる物理的な住所のことではなかった。それは、魂が帰るべき場所。彼がこれまでの人生で、二人の天才設計士と共に守り抜いてきた「人間の尊厳という名の城」のことだ。

日本で静かに暮らしていたジュウォンのもとに、三度目の、そして新たな「記憶の迷子」が舞い込んできた。

影島の潮風の香りを纏った老名工の、最後の戦いがここから始まるのだ。


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