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潮風の設計図  作者: 水前寺鯉太郎
設計図のない明日

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第29話(第2章・最終話):記憶の海へ 〜永遠の建築士〜

第2章 第11話(最終話):記憶の海へ 〜永遠の建築士〜

影島の急峻な崖の上に完成したその建物は、建築界の常識を覆す不思議な形をしていた。

「影島の灯台」あるいは「記憶の揺りかご」と後に呼ばれることになるその図書室には、豪華な装飾も、最新のデジタル設備もない。ただ、そこには訪れる者の「指先」に語りかけてくるような、執拗なまでの優しさが満ちていた。

壁の腰高の位置には、手すり代わりの滑らかな「溝」が、まるで一本の波打つ旋律のように彫り込まれている。床には、わずかな凹凸が施され、視力を使わずとも足の裏の感覚だけで「ここが窓の正面」「ここが本を読む椅子」であることを教える。

それは、光を失ったハン・ヨンジが、同じように暗闇を歩む誰かのために、己の命を削って設計した**「手触りの地図」**だった。

【穏やかな午後:空白の庭】

図書室のテラス。潮風がヒノキの香りを運び、釜山港を行き交う船の汽笛が遠く響く。

車椅子に座ったヨンジは、膝の上に置いた自分の手をじっと見つめ、静かに海風を受けていた。

脳腫瘍の圧迫とアルツハイマーの霧は、ついに彼の意識を、現実という岸辺から遠く離れた「深い海の底」へと連れ去っていた。今や彼は、自分がかつて「ハン・ヨンジ」と呼ばれていたことも、父・ドユンと衝突した過去も、建築士を志した情熱さえも、思い出すことはできない。

「……海……青い?」

ヨンジが、感情を削ぎ落としたような声で、ぽつりと呟いた。

隣で彼の愛読書を読んでいたヨナは、静かに本を閉じ、彼の手を優しく握り締めた。そして、自分の温かい頬に彼の手を寄せ、慈しむように微笑んだ。

「ええ、とっても青いよ、ヨンジ。……あなたが昔、『一番好きな色だ』って言っていた、あの海の色。今日は太陽の光が反射して、キラキラと銀色の紙吹雪みたいに光っているわ」

ヨンジは「ヨンジ」という自分の名前にさえ、もはや反応を示さなかった。自分が誰であるかという認識さえ、波に洗われた砂の文字のように消えてしまったのだ。けれど、ヨナの掌の確かな温もりと、頬に触れる柔らかな感触。それには、微かに、本当に微かにだけれど、口角を上げて応えた。

その表情は、どんな精巧な設計図よりも美しく、穏やかな完成形だった。

【父と師の継承:影の下で】

図書室の入り口では、二人の男が並んで立ち、その光景を遠くから見つめていた。

ハン・ドユン。かつて釜山のスカイラインを司った建設会社の重役は、今やその地位も、高価なスーツも持っていない。彼は会社を辞め、ジュウォンの正式な弟子として、この図書室を生涯かけてメンテナンスしていく道を選んだ。

「ジュウォンさん。……あいつ、僕のことも、自分の名前も全部忘れてもうたのに。……この柱に触る時だけは、まるで旧友に会ったような、いい顔をするんです」

ドユンは、自らもかんなで削り上げた柱を見上げ、鼻の奥を赤くした。

ジュウォンは、使い古された手拭いで顔を拭い、静かに頷いた。

「当たり前や。脳みその記憶なんて、所詮は電気信号や。あいつの魂、あいつの建築士としての意地は、今やこの建物の『ふし』の一つ一つに溶け込んどる。あいつが忘れても、この建物があいつを覚えとる。それでええんや」

ジュウォンは、かつて自分が生涯をかけて愛し、看取ったハン・ジアンの言葉を反芻していた。

「家は、人が生きた証そのもの。肉体が消えても、その場所を流れる風と光の設計に、愛した記憶は宿り続ける」

ジアンが遺した一軒の家がジュウォンを支え、ヨンジが遺したこの図書室が、今また、残されたドユンやヨナの「心」を繋ぎ止める聖域となっていた。

【ヨナの「新しい恋」:毎日が初恋】

ヨナは、ヨンジを連れて毎日、この図書室のテラスに座る。

そして、記憶がリセットされる彼に、毎朝、初めて出会う人のように自己紹介をする。

「初めまして、ヨンジさん。あなたの設計したこの図書室が大好きで、ここに通っているヨナといいます。……あなたの隣に座って、海を見てもいいですか?」

ヨンジは最初、少し困ったように眉を寄せるが、すぐに照れたように笑い、小さく頷く。

二人の間にあった、大学での出会いや、あの広安里の海岸での別れ話、共に泣いた宣告の日。それらの物語は、ヨンジの側からはすべて消去されてしまった。

けれど、ヨナにとっては、それは「欠落」ではなかった。毎日、新鮮な気持ちで「新しいハン・ヨンジ」に恋をすることができる。それは、世界で最も過酷で、そして世界で最も純粋な初恋の繰り返しだった。

ヨナは、ヨンジがかつて震える手で蜜蝋の板に刻んだ、あの一文を記した小さなプレートを、肌身離さずお守りのように胸に抱いている。

『わすれたくない。このての、あたたかさを。』

認知という機能が壊れても、魂が指先に刻んだ「手触り」だけは、アルツハイマーという荒波に攫われることはなかった。ヨンジの手は、今でも無意識に壁の「溝」を辿り、自分がかつて引いた「愛の基準線」を確認しているのだ。

【エピローグ:風の旋律】

カメラはゆっくりと高度を上げ、夕暮れに染まる影島の全景を映し出す。

紺碧の海と、断崖にへばりつくようにして建つ、小さな、けれど誇り高き二つの建物。

ジアンとジュウォンが二十年かけて守り抜いた「最初の家」。

そして、ヨンジとドユン、ヨナが魂を継承して建てた「記憶の図書室」。

二つの建物は、まるでお互いの欠けた部分を補い合うように寄り添い、釜山の海を見下ろしていた。

風が強く吹くたび、図書室の軒先に吊るされた風鈴がチリン、と澄んだ音を鳴らす。

それは、ヨンジが暗闇の中で唯一の道標にしていた、あの愛の旋律だ。

水平線の向こうへ、太陽が真っ赤な輝きを残して沈んでいく。

たとえ明日、ヨンジがすべてを忘れて目覚めたとしても、彼らが打ち込んだ杭は、今日も深く、静かに、この地面の芯を貫いている。

その杭がある限り、彼らの愛が倒壊することはない。

釜山の波音は、優しく、すべてを包み込み、永遠に続いていく。


【第2章、完】


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