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潮風の設計図  作者: 水前寺鯉太郎
設計図のない明日

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第28話:光なき回廊

第二章 第10話:光なき回廊(廊下)

釜山・影島の高台に吹き付ける風は、冬の名残を帯びて冷たく、けれど湿った土と新しい木材の芳醇な香りを運んでいた。現場には、今日という日を待ちわびていた「上棟じょうとう」の緊張感が、朝霧のように立ち込めている。

建物の骨組みが空へと伸び、最高部となる棟木むなぎを上げるこの儀式は、建築士にとっても大工にとっても、魂の結婚式のようなものだ。しかし、主役であるはずのハン・ヨンジの瞳に、その誇らしい景色はもう映っていなかった。

彼の目は確かに開いている。けれど、そこには影島の青い海も、太陽の光を反射する広安大橋も、そして心配そうに自分を見つめる父の顔さえも存在しない。ヨンジの世界を支配しているのは、脳腫瘍という「不法建築物」がもたらした、どこまでも深く、底のない静寂の闇だった。

「ヨナさん……そこにいるか?」

ヨンジの声は、風にさらわれそうなほど細かった。

「ここだよ。ずっと、手を握ってる。離さないよ」

ヨナはヨンジの震える指先をそっと取り、自分の温かい頬に寄せた。視覚を失い、記憶の地図が次々と破り捨てられていく今の彼にとって、ヨナの鈴のような声と、この柔らかな体温だけが、自分という人間を現世に繋ぎ止める唯一の「命綱ライフライン」だった。

【足場なき暗闇:感覚の設計図】

「ヨンジ。今日は一番高いはりを上げる。……無理だとは言わん。お前の指の腹に刻んだ『蜜蝋の溝』を信じろ。目で見ようとするから足がすくむ。全身を耳にして、重力を感じろ」

ジュウォンの野太い声が、闇の中からくさびを打ち込むように響いた。

ヨンジは、父・ドユンとジュウォンの屈強な腕に左右から支えられ、未完成の図書室の足場へと一歩を踏み出した。

一歩、また一歩。

地上から数メートルの高さ。普通なら恐怖で身がすくむ場所だが、今のヨンジは不思議なほど軽やかだった。視覚という膨大な情報から解放されたことで、かえって自分の重心がどこにあるか、木材がどこで息をしているのかが、研ぎ澄まされた皮膚感覚を通して伝わってくる。

「左、三歩。……そこに、お前が昨日、手探りで打った『目印の楔』があるはずだ」

父・ドユンの導きに従い、ヨンジが慎重に足を出す。使い古された地下足袋の裏が、確かに木の節の僅かな凹凸を捉えた。

「……あった。父さんの声の先に、ちゃんと『道』があるわ。……見えへんほうが、迷わへんかもしれんな」

ドユンはその言葉に胸を突かれ、溢れそうになる涙を堪えて、息子の腰袋を強く握りしめた。かつてエリート街道を走り、息子を自分と同じ「数字の建築家」にしようとしていたドユン。しかし今、彼は自分の肩を「基礎」として使い、暗闇の中を勇敢に進む一人の「職人」としての息子を、心から尊敬していた。

【魂の上棟:最後の一撃】

ついに、建物の最上部へと到達した。

そこは、二重に見える視界の苦しみからも、薬の副作用による絶望的な吐き気からも解放された、絶対的な静寂の聖域だった。ヨンジは今、これまでの人生で最も「自由」な場所に立っていた。

「ヨナさん、準備はええか。……今、鈴を鳴らして」

「うん。いくよ」

ヨナが、ヨンジの首にかけてくれた小さな銀の鈴を、指先でチリンと鳴らした。

その澄んだ音が、未完成の壁の合間を抜け、梁に当たり、潮風に乗ってヨンジの耳へと戻ってくる。

ヨンジはその反響エコーだけで、頭の中に未完成の図書室の構造を完璧なパースとして描き出した。音が跳ね返る速度、その減衰の仕方。それらがヨンジの脳内で、黄金色に輝く三次元の格子状の光となって組み上がっていく。

「……見える。光はないけど、この家の『骨組み』が……ジアンさんが残したかった理想の形が、今、俺の中に完璧に立ってるわ」

ヨンジは、ジュウォンから手渡された大きな木製の掛けハンマーを手に取った。

最後の一本の柱を、横たわる梁の「ほぞ穴」に叩き込む。この一撃が、すべての構造を一つに繋ぎ、建物を完成へと導く。

目隠しをしたまま、深い闇の中で。ヨンジは空間の中心を見据え、迷いなくその重厚なハンマーを振り下ろした。

ドォォォォォォォォン!!

影島の丘を震わせるような、魂を揺さぶる一撃が轟いた。

その衝撃波が、アルツハイマーの霧も、腫瘍の圧迫も、逃れられない死の恐怖さえも一瞬で吹き飛ばした。ヨンジの心は、釜山の空よりも高く、澄み渡った。

木と木が噛み合い、建物が「意志」を持った瞬間だった。

【闇の中に灯る、永遠の光】

「……親方。……父さん。……ヨナさん。……入ったよ。僕の、最後の線が、地面から空まで繋がったわ」

ヨンジは、最上部の梁の上に静かに座り込んだ。

彼にはわかっていた。この「完成」が、自分の意識が、ハン・ヨンジとしての誇りが保たれる、最後の輝きであることを。これからは本当の、出口のない回廊へと沈んでいくことを。

「ドユン、見てみろ。あいつ……ジアンが病魔に屈して描けなかった『続きの図面』を、今、自分の命を定規にして完成させたぞ」

ジュウォンがドユンの肩を抱き、震える声で呟いた。

ドユンは、かつて自分が効率が悪いと切り捨て、否定した「職人の狂気」が、これほどまでに美しく、尊いものであることを、息子の背中から教わったのだ。建物は、単なる箱ではない。それは、誰かがここで生きた、という絶叫の痕跡なのだ。

【手のひらの設計図】

夕暮れ時。太陽は水平線の向こうへ沈み、空は紫とオレンジのグラデーションに染まっているはずだ。

目には見えなくても、ヨンジは頬を撫でる風が少しずつ冷たくなるのを感じ、大地の温かさが消えていくことで、夜の訪れを感じていた。

彼は、傍らでずっと手を握っているヨナの、小さく、けれどたくましい手に、そっと指を添えた。

もう、言葉はうまく出てこない。構文は崩れ、さっきまで何を話していたかも消えかかっている。

だからヨンジは、建築士として最後の「刻印」を、彼女の柔らかな掌に残すことにした。

『ヨ、ナ、サ、ン、ア、イ、シ、テ、ル』

一文字ずつ、ゆっくりと。指先にすべての愛情と感謝を込めて、彼はヨナの掌に文字を書き込んだ。

ヨナは、その一文字一文字が自分の血流に溶け込み、心臓の奥深くに刻印されていくのを感じた。涙が溢れて止まらなかったが、彼女は声を上げなかった。ただ、ヨンジの指を離さないよう、さらに強く握り返した。

「……私も。私もだよ、ヨンジ。あんたが誰になっても、何を見失っても、私が毎日、この掌の記憶を教えてあげる。あんたが作ったこの家で、ずっと一緒にいようね」

光なき回廊の先。

そこには、絶望の闇ではなく、誰も踏み込むことも、壊すこともできない「純粋な愛」という名の堅牢な場所があった。

影島の空に、星が瞬き始める。

二人が命を懸けて完成させた図書室は、暗闇の中で静かに、けれど力強く、愛の座標を示し続けていた。

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