第27話:崩壊する防波堤
第二章 第9話:崩壊する防波堤
影島の夜は、打ち寄せる波の音と共に更けていく。リビングのテーブルの上には、一週間前よりも確実に種類の増えた薬のヒート材が、銀色の鱗のように無造作に散らばっていた。
ヨンジは震える手で、色とりどりの錠剤を掌に転がし、一気に口の中へ放り込んだ。苦い後味を、冷めた水で強引に流し込む。かつてはこの「化学の防波堤」が、彼の脳内で暴れる忘却の荒波をせき止めてくれていた。しかし、数分経っても、頭の中を支配する鉛のような重い霧は晴れる兆しを見せない。それどころか、視界の二重像はさらに激しく回転を始め、部屋の四隅が溶解していくような錯覚に襲われる。
「……効かへん。もう、何も止まってくれへん」
ヨンジは、自分が今さっき薬を飲んだのかどうかさえ、数秒後には自信が持てなくなっていた。薬を飲むという「生存のための行為」そのものが、記憶の底に開いた巨大な穴から、音もなくこぼれ落ちていく。
【父・ドユンの焦燥:届かない設計変更】
翌日、ドユンは無理やりヨンジを連れ出し、大学病院の診察室にいた。彼は主治医のデスクを叩かんばかりの勢いで詰め寄る。
「先生、もっと強い薬はないんか! 海外の新薬でも、未承認の治験薬でも、金はいくらでも積む! あいつから、建築を奪わんでくれ……あいつの人生を、欠陥住宅みたいに放置せんといてくれ!」
ドユンの叫びは、冷房の効いた診察室に虚しく響いた。医師は視線を落とし、ヨンジの最新のMRI画像を指し示した。
「ドユンさん。冷静に聞いてください。脳腫瘍による物理的な圧迫が、アルツハイマーの進行を異常な速度でブーストさせています。……今のヨンジ君の脳は、猛烈な嵐の中に建つ『砂の城』のような状態です。薬で外壁を固めようとしても、土台を洗う波がそれを上回る速度で全てを攫っていく」
ドユンは、病院の硬いプラスチックベンチで力なく項垂れた。
大手建設会社の課長として、どんな無理な工期も、どんな複雑な超高層構造も、論理と根性で「解決」してきた彼。しかし、目の前で崩落していく息子の意識という「現場」だけは、どんな補強工事も受け付けない。
「……俺は、何のために家を建ててきたんや。街中の誰かを守る屋根を造っておきながら、一番守りたい家族の、たった一つの頭を守れんのか」
【ヨンジの決断:薬を置く日】
影島の家に戻ったヨンジは、夕焼けに染まるテラスでヨナに向かって穏やかに笑った。
その瞳は、もはや焦点を結ぶことを放棄している。右目と左目が、それぞれ違う絶望の断片を見ているかのようだったが、その声だけは驚くほど澄んでいた。
「ヨナさん。……もう、薬はやめるわ」
「ヨンジ、何を言ってるの? 飲まないと、もっと早く……何もかも分からなくなっちゃうんだよ?」
「わかってる。でもな、強い薬のせいで一日中頭がぼんやりして、あんたの声まで遠くの空洞で鳴ってるみたいに聞こえるんや。……死ぬまで、いや、消えるまで『建築士』でおるためには、薬で生かされるんじゃなくて、この『痛み』や『不自由さ』も含めて、今の自分を全部使い切りたいんや」
ヨンジは、ヨナの冷たくなった手を引き、自分の脈打つ胸に強く当てた。
「薬という防波堤が効かへんのなら、魂というエンジンを全開にして動くしかない。……親方に言って。明日から、泊まり込みで現場に入るって。俺の脳が完全に『更地』になる前に、あの図書室を完成させなあかんのや」
【最後の墨出し:暗闇へのダイブ】
その夜、ヨンジは月明かりだけが頼りの現場に一人で立った。
視覚はもはや、光の渦と闇の絵の具が混ざり合った抽象画のよう。真っ直ぐな柱も、彼には巨大な鎌首をもたげる蛇のように歪んで見えていた。
彼は、以前ジュウォンに教わった「蜜蝋の板(心の定規)」を左手でなぞりながら、最後の一本の主柱を立てるべき場所に、自分とヨナを繋いでいたあの「赤い糸」を張り渡した。
薬という防波堤を自ら取り払ったヨンジの脳内に、奔流のような、整理されない記憶の断片が逆流して流れ込む。
幼い頃、父の書斎で盗み見た青図の匂い。
ヨナと初めて食べた、安っぽいソーダアイスの甘み。
ジュウォンの家の、あの懐かしいヒノキの香気。
それら全てを、彼は「図面」という三次元の形に変えようと、暗闇の中で千枚通しを狂ったように動かし続けた。視覚が死んだ代わりに、指先の触覚が、空気の揺らぎさえも感知するレーザーセンサーへと変貌していく。
深夜、心配で現場を訪れたジュウォンが目にしたのは、月の下で目をつぶったまま、複雑な継手の構造模型を神業のような速度で組み上げるヨンジの姿だった。
「……ジアン。お前がこの世に遺したかった景色は、これやったんか」
ジュウォンは、ヨンジの汗に濡れた震える背中を見つめながら、静かに、しかし決然と自分の金槌を握り直した。
科学が匙を投げ、薬が効かないというのなら、自分たちの「命」そのものを資材として削り出し、この建物を支え抜くしかない。
ヨンジが打ち込む最後の一本の杭の音が、影島の崖を震わせ、夜の海へと溶けていった。




