第26話:心の定規
第二章 第8話:心の定規
影島の現場に、重苦しい湿り気を帯びた潮風が吹き込んでいた。
未完成の図書室の中央、仮設の作業台の前で、ヨンジは立ち尽くしていた。彼の前には、広大な雪原のように真っ白な厚紙が置かれている。しかし、今のヨンジにとって、かつて相棒だった製図用の細いシャーペンは、もはや使い道のない鉄の棒に過ぎなかった。
ペン先を紙に近づけるたび、視界の中で紙の境界線が二重、三重に枝分かれし、どこが「現実の平面」なのかが判別できない。線を引こうとすれば、自分の手が虚空を掴むような感覚に陥り、脳が激しい拒絶反応を起こして目眩に襲われるのだ。
「ヨンジ、これを使え。今の自分を道具に合わせるな。道具を今の自分に合わせるんや」
背後からジュウォンが歩み寄り、机の上にガサリと重い物を置いた。それは、製図道具とは程遠い、「鉄の千枚通し(キリ)」と、厚く蜜蝋を塗りたくった木の板だった。
【指先で刻む座標:蜜蝋の記憶】
「目で見える線は、光の屈折一つで嘘をつく。だが、指先でなぞった溝の深さは、決して持ち主を裏切らん。お前の脳が今、死に物狂いで覚えるべきは『視覚的な数字』やない。指が感じる『深さと距離』や」
ヨンジは、ジュウォンの言葉に従い、静かにまぶたを閉じた。
二重に見える煩わしい景色、ズレ続ける世界を強制的にシャットアウトする。暗闇の中で、ヨンジの感覚は一気に指先へと凝縮されていった。
「ヨナさん……。土台の寸法を、教えてくれ」
傍らに控えていたヨナが、ヨンジの耳元で、祈るような、しかし凛とした声で数字を紡ぐ。
「……柱の幅、15センチ」
その声を聞いた瞬間、ヨンジは自分の親指と人差し指を大きく広げた。幼い頃、父の現場で何度も触れ、遊び道具にしていた木材の厚み。15センチという感覚が、筋肉の記憶として蘇る。彼は千枚通しを蜜蝋の上にグッと押し込んだ。
紙の上にインクを「置く」のではない。板の上に、己の感覚を「刻み込む」。
ググッという鈍い抵抗感と共に、蜜蝋が左右に盛り上がる。その盛り上がった溝の感触が、指先を通じてダイレクトに脳の深部を刺激した。
【父ドユンが教える「心の補助線」】
「ヨンジ、次は梁の長さだ。三メートル。……俺が横に立つ。俺を測れ」
父・ドユンが、蜜蝋の板の端に寄り添うように立った。ヨンジは片手を父の肩に置き、もう片手の指先を板の端に滑らせる。
「……父さんの肩までの距離。これが、この家の『高さ』。……わかった、見えたわ。父さんの背丈が、この図書室を支える柱の基準なんやな」
ドユンは自らが補助線(定規)となり、ヨナは消えゆく記憶を繋ぎ止める記録となり、ヨンジの指が設計図を描き進めていく。
二十年前、ハン・ジアンが精密な計算と美学で導き出した「神の設計図」とは違う。それは、血の通った、泥臭くも力強い、**「人間の手触りの設計図」**だった。
「……できた。目では一本の線も見えへんけど。でも、指が『ここや、ここがこの家の芯や』って言うてる」
ヨンジがなぞり終えた蜜蝋の板には、視覚的には歪んでいるかもしれないが、そこには確かに、愛する人たちの存在を基準とした、温かい建物の骨組みが刻まれていた。
【現場に響く「継承の音」】
その光景を後ろで見守っていたジュウォンの目に、熱いものが込み上げた。
かつてジアンが記憶を失い、自分が誰かも分からなくなりながらも、最後に真鍮のドアノブの手触りだけで、自分がその家の設計者であることを思い出した、あの奇跡の瞬間。
今、目の前のヨンジがやっていることは、まさにあの時のジアンの意志の「継承」そのものだった。
「ヨンジ。その板に刻んだ溝を、今度は実際の木材に移すぞ。……お前の『心の定規』を、この影島の地面に打ち込むんや。脳が壊れても、この家が完成すれば、お前の魂はここに固定される」
「はい、親方!」
ヨンジは、もう自分の不運を呪うのをやめた。
視界が二重に見えるなら、その二つの世界の「真ん中」を、この指先の溝に沿って歩けばいい。ズレているのは世界の方で、自分の中の定規は、まだ狂っていないのだから。
【深夜の祈り:刻まれた本音】
その夜、工事現場の仮設小屋で、ヨンジは一人、月明かりを頼りに蜜蝋の板をなぞり続けていた。
明日の作業を復習するように、何度も、何度も、指先で溝の深さを確かめる。そこには、自分とヨナ、そして父とジュウォンが肩を寄せ合って笑っているような、小さな家の模型のような溝が刻まれていた。
しかし、その板の隅に、ヨンジは自分でも無意識のうちに、千枚通しの先で小さな、小さな文字を刻んでいた。
『わすれたくない。このての、あたたかさを。』
翌朝、現場に一番乗りしたヨナは、作業台の上に置かれたその板を見つけた。
朝日が蜜蝋の溝に影を作り、ヨンジの切実な願いを浮き彫りにしていた。
ヨナは、その冷たい板を自分の胸に強く抱きしめた。板に刻まれた文字が、自分の心臓に直接押し付けられているような痛みを覚えた。
「……忘れないよ、ヨンジ。あんたが忘れても、この板が、この家が、そして私が……全部、一生抱きしめてあげるから」
ヨナは声を殺して、震える肩を抑えながら、静かに泣き続けた。
影島の海から吹き付ける風が、完成間近の木枠を、カラカラと乾いた音で鳴らしていた。




