第25話:歪んだ座標
第二章 第7話:歪んだ座標
釜山大学病院の診察室には、独特の静寂と、消毒液の冷たい匂いが充満していた。
ヨンジは精密検査機の小さな穴に顎を乗せ、暗闇の中で明滅する光の点を見つめていた。視能訓練士の「光が見えたらボタンを押してください」という機械的な声が響く。しかし、彼にとってその作業は、もはや苦痛以外の何物でもなかった。
「……先生、やっぱりおかしいです」
ヨンジが機械から顔を離すと、そこには二人の医師が並んで座っているように見えた。
「光が上下にズレて二つに見えるんです。ジュウォンさんの顔も、父さんの顔も、みんな半分ずつ重なって、ずーっとズレてる。どっちの輪郭を信じて歩けばいいのか、もう分からんのです」
診察室の外では、父・ドユンが落ち着かない様子で長い廊下を往復していた。かつてのハン建設の辣腕課長も、ここではただの、息子の容態に怯える一人の父親でしかない。そこへ、大学の講義を終えたヨナが息を切らせて駆けつけてきた。
【診断:脳の悪戯か、残酷な追加工事か】
「ドユンさん、ヨンジは……?」
「今、検査中や。……物忘れだけならまだしも、視界まで奪われるなんて。神様はあいつから、建築士の夢だけやなくて、世界を見る権利まで根こそぎ奪うつもりなんか」
診察室に呼ばれた二人の前に、医師は数枚の画像データを並べた。モニターに映し出されたのは、ヨンジの脳の奥深く、暗い影を落としている異物だった。
「ドユンさん、ヨンジ君。……実は、アルツハイマーからくる視空間失認だけではなく、検査の結果、**『脳腫瘍』**による物理的な圧迫の可能性が出てきました」
その言葉が落ちた瞬間、室内の空気が凍りついた。ヨナが息を呑み、ドユンが椅子から身を乗り出す。
「脳腫瘍……? 記憶が消えるだけじゃなくて、腫瘍が視神経を圧迫していると?」
「ええ。若年性アルツハイマーの進行が異常に早かった原因も、ここにあるのかもしれません。腫瘍が脳の深部、松果体の近くにあり、記憶を司る海馬のネットワークと、視覚情報を処理する領域の両方を侵食し始めています。今の複視(二重に見える現象)は、神経が物理的に押し潰されているシグナルです」
【ヨンジの問い:何が本物か】
ヨンジは、自分のこめかみを指さして、力なく笑った。
「……なんや。僕の頭の中、設計ミスどころか、地盤沈下したあとの欠陥工事だらけやったんやな。構造計算からやり直しや」
冗談めかして言ったその言葉に、ドユンは耐えきれず医師に詰め寄った。
「手術は……! 手術でその腫瘍を取れば、あいつの目は元に戻るんですか! 視界が一つになれば、あいつはまた図面を引けるようになりますか!」
医師は眼鏡を直し、言い難そうに言葉を選んだ。
「場所が悪すぎます。腫瘍が記憶の神経束に絡みついている。手術を強行すれば、視力は戻るかもしれませんが、今残っている大切な記憶さえも、一気に、永久に失うリスクが極めて高い。……視力を取るか、今の思い出を守るか。これは、本人にとって、あまりにも残酷な選択になります」
ヨナはヨンジの手をそっと握った。しかし、今のヨンジには、その愛しい手さえも上下に重なり、どちらを握り返せばいいのか分からない。
ヨンジは、震える手で「上側」に見えるヨナの手を掴もうとして、虚しく空を切った。次に、意を決して「下側」に見える方の手に指を絡める。
温かい。掌の柔らかな質感。
それが、この歪んだ世界における唯一の「本物」だった。
【決断:二重の世界で生き抜く】
「手術は……しません」
ヨンジの声は、診察室の隅々にまで届くほどはっきりとしていた。
「記憶を失って、目が治って、真っ白な世界で一人だけになっても……それはもう『ハン・ヨンジ』じゃない。たとえ二重に見えても、僕は今の僕のままでいたい。ヨナさんの顔が二人に見えるなら、二倍愛せると思えばええ。父さんの顔が二人に見えるなら、二人の父さんに支えられてると思えばええ。……父さん、俺は、この歪んだ景色のままで、最後まで、あの大黒柱が立つ図書室を完成させたいんだ」
ドユンは、溢れ出す涙を拭おうともしなかった。かつて自分は、効率や保身のために「形あるもの」を優先してきた。しかし、目の前の息子は、今にも消えそうな「心の形」を守るために、すべてを賭けようとしている。
「……わかった。ヨンジ。お前がそう言うなら、俺は二重に見えるお前の『両方の手』をしっかり支えてやる。右を向いても左を向いても、俺がいるようにしてやる」
【タクシーの中の万華鏡】
帰り道のタクシー。
窓の外を流れる釜山の夜景は、腫瘍の影響で万華鏡のように美しく、そして悲しくズレて広がっていた。広安大橋の主塔が四本に見え、車のテールランプが川のように二層になって流れていく。
ヨンジは、その幻想的な景色を恐れるのをやめ、ヨナの肩にそっと頭を預けて目を閉じた。
「ヨナさん……。目をつぶれば、君は一人だけや。……視界が騒がしくて疲れるけど、君の声だけは、いつも一つで、真っ直ぐに僕の心に届く。声だけで、僕を導いて」
ヨナは彼の耳元で、彼が大好きな古い歌を、小さな声で歌い続けた。
目を開ければ、世界は壊れたパズルのように散らばっている。けれど、暗闇の中、重なり合った二人の心だけは、どんな精密な設計図よりも正確に、寸分の狂いもなく溶け合っていた。
ヨンジの手は、今度は迷うことなくヨナの手を握りしめていた。
歪んだ座標の中で、彼らは「愛」という名の、絶対に揺らぐことのない新しい基準線を見つけていた。




