第24話:二つの残像、一つの真実
第二章 第6話:二つの残像、一つの真実
影島の現場。潮風が木材の香りを巻き上げ、未完成の図書室の骨組みの間を吹き抜けていく。ヨンジは、仮設の作業台に置かれた製図板の前に座り、唇を噛み締めていた。
手にした鉛筆は、紙の数ミリ上で宙を彷徨っている。
「……またや。一本の線が、二本に見える」
ヨンジが何度も目を擦り、頭を振っても、世界はピントの合わない古い映画のようにダブり続けていた。定規を当てようとしても、その定規自体が幽霊のように重なって見え、どちらが「本物」で、どちらが「虚像」なのかが判別できない。
視覚の狂いだけではない。追い打ちをかけるように、数分前にジュウォンから指示されたばかりの「柱の寸法」という、建築士にとって命とも言える数字が、指の間からこぼれ落ちる砂のように脳内から消えていた。
【混乱:消える数字と重なる世界】
「ヨンジ、何をもたついとる。墨付け(木材に印をつける作業)が終わらんと、次の工程に進めんぞ。日が暮れる前に刻み(加工)に入らなあかんのや」
ジュウォンの厳しい叱咤が現場に飛ぶ。その声の圧力に、ヨンジの焦燥感は限界に達した。
「わかってます! ……わかってるんやけど……!」
ヨンジは叫び、持っていた鉛筆を床に叩きつけた。芯が折れる鈍い音が響く。
「数字が、どうしても思い出せんのや! 120ミリやったか、150ミリやったか……さっき聞いたばかりなのに、頭の中に真っ白な霧が走って、全部消えてまうんや! それに、木材の端っこが二つに見えて、どこに線を引けばええか、どこを信じればええか、もう全然わからん!」
ヨンジは自分の頭を、鈍い音を立てて拳で叩き続けた。
「動け、俺の目! 覚えとけ、俺の脳! なんで、たったこれだけのことができへんのや!」
凄惨な光景に、現場は水を打ったような重苦しい沈黙に支配された。ヨナはたまらず悲鳴のような声を上げ、彼のもとへ駆け寄ろうとした。しかし、その肩を父・ドユンが強い力で制した。ドユンの顔もまた、身を切られるような苦渋に歪んでいたが、彼は知っていた。今、ここで甘い救いの手を差し出すことは、建築士として生きようとする息子の魂を殺すことになると。
【ジュウォンの荒療治:目を閉じろ】
ジュウォンはゆっくりとした足取りでヨンジに近づいた。そして、床に落ちた鉛筆を拾う代わりに、ヨンジの手から力任せに墨差しを奪い、代わりに一本の使い古された**「糸」**を握らせた。
「ヨンジ。二つに見えるなら、無理に目で見ようとするな。目は容易く嘘をつく。……目をつぶれ」
「え……? でも、見ないと、線が引けない……」
「ええから閉じろ。視界に頼るから迷う。お前の中にある『感覚の芯』を探せ。そして、その糸を指先の力加減だけでピンと張れ。指に伝わる『張り』と、足の裏に伝わる『地面の傾き』……脳じゃなく、体が感じる重心だけを信じろ」
ヨンジはおそるおそる、震えるまぶたを閉じた。
光が遮断された暗闇の中では、二重に見える視界に惑わされることはない。不快な残像が消え、代わりに周囲の「音」と「感触」が、驚くほどの解像度で研ぎ澄まされていった。
波の音。遠くで鳴るトンビの鳴き声。そして、糸を通して伝わってくるジュウォンの微かな鼓動。
「……ジュウォンさん。糸が……ピンと張って、震えてるのが分かります。指の皮一枚を通して、地面まで真っ直ぐ繋がってるみたいな感覚です」
「それが『生きた線』や。頭で覚えた数字は、風が吹けば忘れてもええ。だが、指が、筋肉が覚えたこの『張り』の感覚は、アルツハイマーでも簡単には盗めん。数字を追うな。その張りの強さを、魂に刻み込め」
【ヨナの「声」のガイド:外部記憶装置】
その横で、ヨナが静かにノートを広げ、声を出し始めた。
「ヨンジ。数字は私が全部、歌にして覚えてあげる。……いい? 『柱の高さは三メートル、私の身長の二人分』。ほら、リズムに乗せて。三メートルは私、二人分」
ヨナは、ヨンジが忘れてしまう無機質な「記号(数字)」を、彼が愛し、触れることのできる「具体的なイメージ」へと翻訳し、彼の耳から直接、脳の奥底へと注ぎ込み始めた。
「窓の幅は一・二メートル、腕を広げた抱擁の幅。ね、これなら忘れないでしょ?」
ヨナは、いつかヨンジが完全に記憶を失う日を見越して、彼の「外部記憶装置」になる決意を固めていた。視覚と文字を失い始めた恋人のために、彼女は彼が歩むための「声の地図」を描き続ける。
【街灯の下、重なる影】
その日の作業が終わり、夜の帳が降りた影島の坂道。ヨンジは、ヨナにしっかりと手を引かれながら、頼りない足取りで家路についていた。
「ヨナさん……俺、さっき目をつぶって糸を張った時、一瞬だけジアンさんの影が見えた気がしたわ。あの人も、こうやって暗闇の迷路の中で、必死に一本の糸を頼りに戦ってたんかな」
ヨンジの言葉には、かつての絶望ではなく、同じ道を歩んだ先達への敬意が混じっていた。
ヨナは、街灯の光でアスファルトの上に揺れる、ヨンジの重なる二つの手の残像を見つめた。彼女はその幽霊のような二つの影を、一つにまとめ上げるように、彼の実際の手を痛いほどぎゅっと握りしめた。
「大丈夫。視界が二つに分かれても、私がその真ん中を歩くから。あんたの目が迷っても、私の手が真っ直ぐな道へ連れていく。私だけを見ていれば……私を信じていれば、道はいつだって一本だよ」
街灯の下、二人の影はゆっくりと重なり、一つの長い影となって、釜山の夜の中へと伸びていった。
それは、どんな構造計算よりも強固に結びついた、二人の、そして三人の「愛」という名の設計図だった。




