第21話:春の蜃気楼
第二章 第3話:春の蜃気楼
釜山の春は、潮風の中に微かな花の香りを混ぜて運んでくる。広安里の海岸線には、春の陽光が反射し、まるで銀色の鱗のようにきらめいていた。
ヨナは、ヨンジにとって常に眩しい存在だった。同じ建築学科の同級生であり、いつも彼の一歩先を、軽やかな足取りで歩く女性。
「ヨンジ、その線の引き方、ちょっと迷いがあるんじゃない? もっと自信持ってよ! 建物の骨組みは、設計士の心の強さで決まるんだから」
放課後の製図室。窓から差し込む夕日に目を細めながら、ヨナはよくそう言ってヨンジの背中を叩いたものだ。彼女の引く線は迷いがなく、その瞳はいつも数十年先の「未来」を見据えていた。
【別れの予行練習:最低な嘘】
病の宣告を受けてから数日。ヨンジは、ヨナを広安里の海岸へ呼び出した。押し寄せる波の音が、自分の中で崩れていく記憶の砂音のように聞こえ、胸が締め付けられる。
「ヨナさん、俺……もう建築士にはなれへん。大学も辞めるし、ヨナさんとも、もう会われへんわ」
唐突な別れの言葉。ヨンジはわざと冷たい目をして、彼女を見ようとしなかった。視線を合わせれば、決意が瓦解してしまうことを知っていたからだ。
「……急に何を言ってるの? 冗談はやめてよ。あんなに一生懸命だったじゃない。昨日の講義でも、あんなに熱心にエスキース(下書き)してたのに」
「飽きたんや。設計なんて地味な仕事、俺には向いてへんかった。……好きな人も、別にできたしな。もっと派手で、楽しい世界に行きたいんや」
最低な嘘だった。ヨンジは、自分の記憶からヨナという光が消えてしまう前に、彼女の記憶の中から自分を「夢を捨てた最低な男」として塗り潰し、消し去りたかったのだ。憎まれて別れる方が、忘れられていくよりは、まだ救いがある。そう思っていた。
しかし、ヨナはヨンジの震える指先――ポケットの中で必死に何かを握りしめている左手――を見逃さなかった。
【ヨナの決断:消えない愛の測量】
「嘘つくとき、あんた、いつも左手でコンベックス(メジャー)いじくるよね。……癖、直ってないよ」
ヨナは一歩歩み寄り、ヨンジのポケットから、彼が肌身離さず持ち歩いている小さなメジャーを取り出した。カチカチという機械音が、張り詰めた沈黙の中に虚しく響く。
「……何が起きてるのか、全部話して。あんたがどれだけ私を突き放そうとしても、私が全部覚えてるから。あんたが自分の位置を見失うなら、二人の距離は、私がこのメジャーで測り続けてあげる」
ヨンジはついに、膝から崩れ落ちた。砂浜に額を擦り付けるようにして、声を上げて泣いた。
自分を蝕む病のこと。父・ドユンが背負ってきた過去の傷。そして、自分が「ハン・ヨンジ」という人間としての形を失い、愛する人の顔さえ分からなくなっていくことへの、根源的な恐怖。ヨナは砂まみれになるのも厭わず、静かに彼を抱きしめた。
「……ヨナさん、俺、いつかヨナさんの顔も、名前も、全部忘れてまう。……隣にいるのが誰かもわからんくなって、ただの動く塊にしか見えへん日が、すぐそこまで来てるんや」
ヨナは、ヨンジの涙を指で拭い、その瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「なら、その時は私が毎日、初めて会うフリをして自己紹介してあげる。『初めまして、あなたのことが大好きなヨナです』って。毎日が、新しい恋の始まり。毎日、あんたに一目惚れしてあげる。……素敵じゃない?」
【三人の秘密:影島の聖域へ】
翌日、ヨナはヨンジを伴って、影島のジュウォンの家を訪ねた。
そこには、かつてジアンと共に戦い抜いた老職人・ジュウォンと、過去の悔恨からようやく顔を上げた父・ドユンがいた。
「ジュウォンさん、ドユンさん。……私、ヨンジの『記憶の予備パーツ』になります」
ヨナは、ドユンがかつてジアンに対して成し得なかったこと――社会的な地位や世間体ではなく、ただ一人の人間として、最後まで隣で笑い続けること――を、自分がやり遂げると宣言した。
ドユンは、かつての自分にはなかった若者の強靭な意志に、目を見開いた。
「……ヨナさん。それは想像以上に過酷な道やぞ。あいつは、お前の無償の愛すら『不純物』として脳から消去していくんや」
「いいんです。愛されてたことを彼が忘れても、愛してる私がここにいれば、その瞬間は世界で唯一の『真実』ですから。設計図が書き直されるなら、私が何度でも、愛の基準線を弾き直します」
【不完全な、けれど美しい設計図】
ジュウォンの家の庭。潮風に吹かれながら、ヨンジとヨナが並んで座り、一本のスケッチブックを広げている。
ヨンジが震える手で引いた、歪で途切れがちな線。そこにヨナがそっと自分の手を添え、新しい線を重ねていく。
「ヨンジ、これ、私たちの『未来の家』の設計図にしようよ。どこに窓を作ろうか? 海が見えるように、大きな窓がいいね」
ヨンジの顔に、久しぶりに穏やかな笑みが浮かんだ。
その光景を、ジュウォンとドユンは遠くから見つめていた。
かつてジアンが命を懸けて守り抜いた「職人の魂」と「愛の記憶」が、今、新しい世代の瑞々しい愛の形として、影島の土に深く根を張ろうとしていた。
それは春の蜃気楼のように儚いかもしれない。けれど、その瞬間、彼らが描いているのは、どんな石造りのビルよりも壊れにくい、心の城だった。




