第20話:継承される傷跡
第二章 第2話:継承される傷跡
影島の潮風は、二十年の歳月を経てもなお、鼻腔をくすぐるヒノキの香りを運び続けていた。ジュウォンの家——かつてハン・ジアンという一人の天才設計士が、自らの魂を削り取って設計したその家の縁側で、ヨンジは一枚の古い写真を見つめていた。
セピア色に褪せ始めたその写真には、若かりし頃のジュウォンと、もう一人、鋭い眼光を放ちながら図面を抱え、現場ヘルメット越しにジュウォンと激しく睨み合っている中年の男が写っていた。
「……これ、僕の父さんですか?」
ヨンジの指が、写真の中の男を差した。今の、どこか疲れ果て、数字と効率ばかりを気にする「管理職」の父とは違う、熱病に浮かされたような情熱を瞳に宿した男——ハン・ドユン。
「せや。……ドユンはな、昔から理屈っぽくて、妥協を知らん男やった。……そしてな、ヨンジ。あいつは、お前の祖父さんが経営しとったハン建設で、ハン・ジアンの一番弟子やった男や」
ジュウォンの口から語られた事実は、ヨンジの脳内に広がっていた霧を一瞬で晴らすほどの衝撃を伴って響いた。
【二十年前の因縁:二つの愛の形】
二十年前、父・ドユンは若手建築士として、ジアンの背中を追いかけていた。ジアンの引く一本の線、その美しさと構造的な強固さに心酔し、彼女こそが建築の未来だと信じて疑わなかった。だが、そのジアンが若年性アルツハイマーという「崩壊」に直面した時、ドユンの心は二つに裂けた。
「ドユンは、ジアンを『完璧な建築士』として愛しとったんや。だからこそ、彼女が名前を忘れ、図面が引けなくなり、壊れていく姿を見ていられんかった。あいつは、ジアンの尊厳を守るために、彼女を現場から引きずり下ろしてでも、ソウルの病院へ隔離しようとするギテク社長……お前のじいさんの側近として動く道を選んだ」
一方で、現場の叩き上げの職人だったジュウォンは、たとえジアンが設計士としての能力を失っても、一人の女として彼女を抱きしめ、共にこの「欠陥だらけの理想郷」を建てる道を選んだ。
「あいつは『会社とジアンの名声』を守るために彼女を遠ざけ、俺は『ジアン自身』を守るためにここに残った。……どっちが正解やったんかは、今もわからん。ただ、ドユンはあの日から、自分の情熱を封印して、冷徹な管理職として生きることで、自分自身に罰を与え続けてきたんや」
ドユンはジアンが去った後の会社を必死に立て直し、今の地位を築いた。だが、その過程で彼は建築士としての自らの夢を半分捨てた。ジアンを見捨てたという罪悪感が、彼に「美しい建物」を建てる資格を失わせたのだ。
【再会:鳴り響く過去の呼び声】
その時、ヨンジのポケットの中でスマートフォンが激しく震えた。ディスプレイに表示されたのは「父さん」の二文字。
ヨンジは震える指で通話ボタンを押した。
「ヨンジ! どこにおるんや、お前! 大学から連絡があったぞ……健康診断の結果、再検査を無視しとるやろ。……何か、隠しとることはないか!」
受話器越しに聞こえるドユンの声は、かつてないほど焦燥しきっていた。それは、二十年前に自分が失った「何か」が、再び奪われようとしていることを本能的に察知した獣の叫びのようでもあった。
ヨンジは、家の中を流れるヒノキの香りを胸いっぱいに吸い込み、覚悟を決めて答えた。
「……父さん。僕、今……影島の、あの『木の家』におるよ」
電話の向こうで、ドユンの息が止まる音がした。
二十年間、避けてきた場所。自分がかつて尊敬した師匠が、文字通り「消えていった」場所であり、自分を「裏切り者」と呼んだかもしれない宿敵・ジュウォンが守り続けている聖域。
【対峙:二十年越しの現場検証】
一時間後。一台の黒塗りの高級車が、砂利道を跳ね上げ、影島の静寂を切り裂いて急停車した。
車から降りてきたハン・ドユンは、仕立てのいいスーツに身を包んでいたが、その顔は蒼白で、足取りは覚束ない。
門の前で立ち尽くし、目の前の「木の家」を仰ぎ見るドユンの前に、ジュウォンがゆっくりと歩み寄った。
「……ドユン。二十年ぶりやな。……お前の息子が、ジアンと同じ『忘れ物』をしに来たぞ」
その言葉は、ドユンの心臓を貫く弾丸となった。彼は、膝の力が抜けたように、その場に崩れ落ちた。土だらけの地面に膝をつき、嗚咽を漏らす。
「……ああ。……あああ……!」
自分の息子が、かつての師匠と同じ、逃れられない呪いに侵された。これは、あの日ジアンのそばにいることを放棄し、効率と保身を選んだ自分への、天からの残酷な罰なのか。
「……ジュウォンさん。……助けてくれ。ヨンジを……あいつを、俺みたいに『あの時ああしていれば』と、後悔の闇の中で一生を終わらせたくないんや! ヨンジにだけは、最後まで自分の人生を設計させてやりたいんや!」
ドユンは、二十年間、凍りつかせていた涙を、かつての宿敵の前で、子供のように流した。
ジュウォンは、膝をつくドユンの肩を、タコだらけの、岩のように厚い手で強く叩いた。
「……立て、ハン・ドユン。泣いとる暇なんか一秒もないぞ。……ジアンが図面を引いて、俺が建てた。今度は、お前の息子が、消えゆく記憶の中で何をこの世に遺すか……それを支えるのが、あの日から生き残っちまった俺ら『生き残り』の、最後の仕事やろ」
ヨンジは、家の中からそんな二人を見つめていた。
自分の病という絶望が、止まっていた父の時間を動かし、新しい「人生の現場」を作り出そうとしていた。
ヨンジは、まだ震えの止まらない自分の手を見つめた。
「父さん……僕、描くよ。何が消えても、この家に負けないくらいの、最高の『愛の形』を」
夕暮れの釜山港。広安大橋の灯りが点り始める中、二十年前の因縁を超えた、新しい設計会議が始まろうとしていた。




