第19話:青嵐(あおあらし)の宣告
第二章 第1話:青嵐の宣告
釜山の空は、どこまでも高く、残酷なほどに青かった。
釜山大学のキャンパスは、新入生たちの放つ熱気と、真新しいスーツの擦れる音に包まれていた。ハン・ヨンジは、その喧騒の中にいた。建築学科の入学式を終えたばかりの19歳。彼の手の中にあるのは、父から入学祝いに贈られた最高級の製図ペンと、未来という名の真っ白なキャンバスだった。
ヨンジの父、ハン・ドユンは、かつて釜山の数々のランドマークをその手で指揮した「ハン建設」の名物課長だった。幼い頃、父に連れられて行った建築現場。ヘルメットを被り、図面を広げて職人たちと渡り合う父の背中は、ヨンジにとって揺るぎない世界の中心だった。
「ヨンジ、建物はな、嘘をつかん。基礎がしっかりしとれば、何十年経っても誰かを守り続けるんや」
その言葉を胸に、ヨンジは生きてきた。いつか父を超え、釜山のスカイラインを塗り替えるような、強くて美しい建物を建てる。それが彼の、疑いようのない「普通の未来」だった。
しかし、その未来は、春の嵐よりも唐突に、足元から音もなく崩れ去ることになる。
【白い迷宮:宣告の響き】
「……若年性アルツハイマー。それも、進行の非常に早い、特殊なタイプです」
大学の健康診断で受けた、ほんのわずかな違和感への確認。講義の教室を間違える、さっきまで持っていたノートの場所を忘れる。そんな「よくある物忘れ」だと思っていた。しかし、精密検査の結果を告げる医師の声は、ヨンジの耳を素通りし、診察室の白すぎる壁に虚しく吸い込まれていった。
医師が指し示すモニター。そこには、19歳の若々しい細胞が詰まっているはずの脳の、一部が不自然に影を落としている画像があった。
「……先生。それ、冗談……ですよね? 19歳ですよ? これから建築を学んで、大きなビルを建てるんです。まだ一歩目も踏み出してへんのに」
医師は答えなかった。その沈黙が、どんな言葉よりも深く、ヨンジの絶望を肯定していた。ヨンジの視界が、じわじわと真っ白な霧に覆われていく。それは脳内で起こっている「破壊」を視覚化したような、恐ろしい霧だった。
【父の沈黙と、ヨンジの孤独】
病院からの帰り道、釜山の街並みはどこか他人の顔をしていた。見慣れたはずの坂道も、行き交うバスの番号も、すべてが自分を拒絶しているように感じる。
帰宅すると、リビングには父・ドユンがいた。彼は今、釜山港の再開発プロジェクトという、人生最大の山場を任され、多忙を極めていた。
「おぉ、ヨンジ! お帰り! 大学はどうや? 友達はできたか? 講義は難しいか?」
冷えたビールを飲みながら、誇らしげに息子を仰ぎ見る父。その瞳には、自分の果たせなかった夢を息子に託す、熱い期待がこもっていた。
ヨンジは、カバンの中にある「若年性アルツハイマー」という冷徹な診断書を、どうしても出すことができなかった。指先がカバンの中で震える。
「……うん。設計の授業、めちゃくちゃ面白いわ。教授に筋がいいって褒められた。……父さんを超える建築士になったるから、見といてや」
精一杯の笑顔。嘘を重ねるたびに、胸の奥が千切れるように痛んだ。
その夜、ヨンジは自分の部屋で、真新しい製図板に向かった。最初の課題。一本の直線。
深呼吸をし、定規を当てる。しかし、その瞬間、彼の手が石のように固まった。
(……あれ? シャープペンの芯、どうやって出すんやったっけ。……定規の目盛り、どっちから読むんやったっけ)
数時間前に教わったはずの「線の引き方」が、どうしても思い出せない。頭の中に手を突っ込んで記憶を探っても、そこにあるのは冷たい空洞だけだった。
「……なんでや。なんで、うちなんや」
ヨンジは製図板の上に突っ伏した。新入生の希望に満ちた部屋に、行き場のない嗚咽が漏れた。
【運命の出会い:影島の家】
数日後。ヨンジは、消えゆく自分を繋ぎ止めようと、釜山の街を彷徨っていた。大学へ行く足は、いつの間にか止まっていた。
導かれるようにバスを乗り継ぎ、辿り着いたのは、影島の急勾配な高台だった。潮風が強く吹き荒れるその場所に、一軒の不思議な家が毅然と立っていた。
古びているが、隅々まで手入れが行き届いている。使い込まれた木材が放つ深い光沢と、微かなヒノキの香り。その家は、誰かが誰かを守るために建てた「祈りの結晶」のように見えた。
「兄ちゃん、そんなとこで何しとる。道に迷ったんか?」
背後からかけられた声に、ヨンジは肩を震わせて振り向いた。
そこには、白髪の混じった一人の男が立っていた。手はタコだらけで、日焼けした顔には深い刻まれていたが、その瞳だけは海のように鋭く、そして温かい。
かつての名大工、チェ・ジュウォンだった。
ヨンジは、初対面の男を前に、自分でも驚くほど素直に言葉を零した。
「……いえ。道というか。……自分の『行く先』が、わからんくなっただけです。どこに向かって歩けばいいのか。……足元が、消えていくんです」
ジュウォンは、ヨンジの瞳を見た。その奥に漂う、得体の知れない「霧」。
かつて自分が生涯をかけて愛し、そして最期まで見守り続けた女性、ジアンと同じ、あの哀しくも美しい眼差しだった。
ジュウォンは無言で、ヨンジに背を向けて扉を開けた。
「入り。……ここは、記憶を失くしていく一人の建築士が、最期までに描き、残した『愛の地図』や」
【消えない誇り:柱の記憶】
家の中に入ると、外の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
家の中心にある太いヒノキの大黒柱。ヨンジは、そこに刻まれた歪な文字に目を奪われた。
『ジュウォン』
それは、文字というよりも、指先で必死に掘り進められた「魂の轍」のようだった。ヨンジは、震える指でその文字をなぞった。
その瞬間、冷たかったはずの心臓に、熱い電流が走った。
「……これ、設計士の方が書いたんですか?」
「ああ。俺の女房や。……名前も、文字の意味も、最後にはわからんくなった。でも、この柱の手触りだけは、最期まであいつを裏切らんかった」
ジュウォンは、誇らしげに笑った。その笑顔には、失うことを受け入れ、それでもなお守り抜いた男の強さがあった。
自分の未来が消え、夢が砂のようにこぼれ落ちていく恐怖の中で、ヨンジはこの家が放つ「消えない誇り」に、生まれて初めて救われたような気がした。
「……教えてください。……おじさん。どうすれば……忘れながらも、生きていけますか? どうすれば、空っぽになっていく自分を、許せますか?」
ヨンジの切実な問いが、部屋の隅に漂うヒノキの香りを揺らした。
ジュウォンはヨンジの肩に、厚く、熱い、職人の手を置いた。
「忘れながら生きるんやない。……忘れても残る『何か』を、この三次元に刻み込むんや。大工にできるんは、その手伝いだけや」
釜山の海から吹き付ける「青嵐」が、家の窓をガタガタと鳴らした。
ハン・ヨンジの、第二の、そして最後の設計図が、この影島の家から始まろうとしていた。




