第22話:構造検査の診断書
第二章 第4話:構造検査の診断書
釜山大学病院の廊下を歩くドユンの足取りは、鉛を詰め込んだように重かった。
彼はあえて、他の病院ではなく、かつてハン・ジアンが通い、自らの魂が削り取られていく宣告を受けたのと同じ「神経内科」の門を叩いた。診察室の扉に貼られたプレートを見つめながら、ドユンは二十年前のデジャヴに眩暈を覚える。
現在の主治医は、当時ジアンを診ていた医師の教え子であり、正当な後継者だった。デスクの傍らに置かれた棚、その古いカルテの束の中には、あの「伝説の設計士」が最期に遺した脳の記録が、今も静かに、そして残酷な教訓として眠っている。
【診察室:動かぬ数値と崩れる均衡】
診察室に入ると、そこには無機質な青白い光が満ちていた。
モニターに映し出されたのは、ヨンジの脳の断層写真だ。素人の目には美しくさえ見えるその幾何学的な模様の中に、ドユンは「構造上の欠陥」を瞬時に読み取った。二十年前、図面越しにジアンの異変を察知したあの時と同じ、嫌な予感。
「……ヨンジ君。最近、距離感が掴みにくくなっていませんか?」
医師の静かな問いに、ヨンジは膝の上で組んだ手を、白くなるほどぎゅっと握りしめた。
「はい。……階段を降りる時、最後の一段がどこにあるか分からんくなって……、あるはずの床がないみたいに、スカッと空振りするんです。設計図を描いていても、パース(遠近法)の消失点がどこかへ逃げていく。最近は、真っ直ぐ引いたはずの線が、すべて歪んで見えます」
ヨンジの声は震えていた。建築を志す者にとって、三次元の空間把握能力を失うことは、翼をもがれる鳥と同じだ。ドユンはその言葉を聞き、隣で唇を血が滲むほど噛み締めた。
「先生、薬の量は増やせんのですか。あいつは今、人生で一番大事な時期なんです。大学の課題も、ジュウォンさんのところでの修行も……。今、立ち止まらせるわけにはいかないんです」
「ドユンさん。焦りは禁物です」
医師は静かに首を振った。その眼差しは、かつてジアンを救えなかった悔恨を共有しているかのようだった。
「進行を食い止める『防波堤』を築くことは、現代医学の力でも不可能です。今は、壊れゆく部分を嘆いて補強しようとするのではなく、まだ『生きている神経』をどう使い、人生の設計図を書き換えるかを考える段階です。ヨンジ君、君にはまだ『音』や『手触り』への鋭い感覚が残っている。視覚に頼らず、五感で空間を測る方法を探すんです」
【帰り道の廊下:父と息子の「現場」】
病院の長い廊下は、どこまでも白く、終わりがないように感じられた。
ドユンは、隣を力なく歩くヨンジの肩を抱こうとして、その手を空中で止めた。かつてジアンを裏切り、彼女の「現場」を奪った自分に、この若者の絶望を埋める資格があるのだろうか。自問自答が、足を重くさせる。
「……父さん。先生、あんなこと言ってたけど……。俺、本当は怖いんや」
ヨンジが立ち止まり、震える指先で病院の冷たい壁に触れた。
「いつか自分の家の天井が、自分の頭に落ちてくるような感覚になるんや。この壁が、明日には『出口のない行き止まり』に見える。昨日まで通れたドアが、ただの板に見える。……それが、この病気の、最悪な設計ミスなんやな」
ドユンは、息子の言葉に二十年前のジアンの姿を完全に重ねた。あの日、自分は「彼女が可哀想だ、もう見ていられない」という自分勝手な憐憫から目を逸らし、彼女を現場から引き剥がして、静かな絶望の中へと追い遣った。
だが、今の自分は、あの時の若造ではない。
「ヨンジ。……俺は、お前を『病人』として扱わん」
ドユンは初めて、迷っていたその手を伸ばし、ヨンジの肩を強く、壊れそうなほど力強く引き寄せた。
「お前はまだ、俺の会社の誰よりも、そしてかつての俺よりも、鋭い感性を持った建築士の卵や。……いいか、目が見えにくくなったら、心の中に線を引け。足元が分からんなったら、俺の肩を『基礎(土台)』にしろ。お前が沈まないように、俺が地面の下で支えてやる」
「……父さん」
「組織や世間体なんて、もうどうでもいい。俺のキャリアも、ハン建設の看板も、お前の人生という現場を守るための資材に過ぎん。……忘れることを恐れるな。俺がすべてを書き留めてやる」
【病院のロビー:ヨナの祈り】
ロビーの自動ドアが、無機質な音を立てて開いた。
そこでは、約束通りヨナが不安そうな顔で待っていた。彼女の明るい黄色のコートが、灰色の病院の中でそこだけ春が来たように眩しい。
「ヨンジ! おじさま!」
駆け寄るヨナの姿を見て、ヨンジは一瞬、目眩を感じるほど眩しそうに目を細めた。彼女の存在そのものが、今のヨンジにとっての「光」であり、同時にいつか失うことが約束された「痛み」でもあった。
「ヨナさん……。ごめん、待たせて。……俺の診断結果、構造計算で言えばボロボロやったわ。……でも、父さんが『俺を土台にしろ』って言うてくれた」
ドユンはヨナに向かって、深く、深く頭を下げた。それはかつての傲慢な「ハン課長」の姿ではなく、一人の不器用な父親としての謝罪であり、願いだった。
「ヨナさん。どうかヨンジのそばにいてやってください。……俺は、会社という組織の『ハン・ドユン』であることを今日、捨てました。一人の大工見習いの父として、こいつの『現場』を死ぬ気で支える覚悟が決まった」
ヨナは驚いたように目を見開いたが、すぐに力強く頷き、ヨンジの腕をぎゅっと掴んだ。
【夕暮れの測量】
帰り道、三人が乗り込んだ車の窓から、釜山の街が燃えるようなオレンジ色に染まって見えた。広安大橋の巨大な主塔が、沈みゆく太陽を背にシルエットとなって浮かび上がる。
ヨンジは後部座席で、左手にあるメジャー(コンベックス)をカチカチと鳴らしていた。
10センチ、20センチ。鋼のテープが引き出され、戻るたびに乾いた音が響く。
(ヨナさんとの距離、父さんとの距離。……いつか、この手を伸ばしても届かなくなる日が来る。忘れる前に、全部測って、心の中に消えない図面を引いておかなあかん)
ヨンジは車窓に映る自分の顔を見つめた。そこには、病に怯える少年ではなく、限られた資材で最高の建物を建てようとする「職人の意地」が宿り始めていた。
たとえ明日、世界が歪んで見えたとしても、今日測ったこの温もりだけは、脳ではなく、魂の柱に刻みつけておく。
夕闇が迫る中、車は影島の高台へと、確かな足取りで坂を登っていった。




