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潮風の設計図  作者: 水前寺鯉太郎
潮風の設計図

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第16話:最後の猶予(ファイナル・デッドライン)

海霧が深く立ち込め、影島ヨンドの輪郭をぼやけさせる早朝。

まだ夜の帳が完全に上がりきらない薄暗い現場に、地響きのような重低音が鳴り響いた。父・ギテクが約束通り、解体用の黄色いショベルカーを引き連れて現れたのだ。

「……約束の時間や。ジュウォン君、ジアンを連れて出てこい。荷物は後で運ばせる」

ギテクの声は、霧の冷たさに浸食されたように震えていた。本心では、娘と男が心血を注いだこの家を壊したくなどない。だが、設計士としての誇りを失い、出口のない記憶の迷路を彷徨い、ボロボロになっていく娘の姿をこれ以上正視することは、親として、そして一人の建築家として耐え難い拷問だった。彼にとって、この家を壊すことは、娘を「病」という戦場から強制退却させるための、唯一の残酷な慈悲だった。

【完成した「心臓」】

ギテクが解体作業員に合図を送ろうとしたその時、家の扉がゆっくりと開いた。

中から、フラフラとした危うい足取りでジアンが出てくる。彼女の瞳は焦点が合わず、どこか遠くの、誰にも見えない景色を眺めているようだった。その手首には、家の中を縦横無尽に走り、ジュウォンへと繋がる「赤い紐」が、食い込むほど固く結ばれている。

その後ろから、三日間一睡もせず、泥と汗、そして無数の木屑にまみれたチェ・ジュウォンが現れた。腰に下げた釘袋は空っぽになり、使い古された金槌だけが鈍く光っている。

「社長。……止めてください。見てください。完成しました」

ジュウォンが震える指で指さしたのは、玄関の扉だった。

昨日までどれだけ探しても見つからなかった、あの真鍮製のドアノブ。ジアンが混乱の中で弁当箱に隠し、自分の記憶と一緒に封印してしまった、あの「大切な部品」が、昇り始めた朝日に照らされ、そこにあるべき必然として鈍く、重厚に光っている。

「……それがどうした。ドアノブ一つ付いたところで、何が変わる。ジアンの脳が治るわけやない! 明日になれば、また何もかも消えるんやぞ!」

ギテクの悲痛な叫びが、潮風にかき消されそうになる。

「治りません。そんなことは俺が一番分かってます」

ジュウォンはジアンの隣に立ち、彼女の冷え切った手をそっと取って、その真鍮のドアノブの上に重ねさせた。

「でも、この家は……ただの家やない。ジアンさんの『外部記憶装置』なんです」

【指先が呼び起こす奇跡】

ジアンの指が、真鍮のひんやりとした冷たさと、彼女自身が何百ものサンプルの中から選び抜いた、独特な唐草模様の凹凸をなぞる。

その瞬間、死んだ魚のように虚ろだった彼女の瞳の奥で、小さな、しかし熱い火がパッと灯った。

「……この感触。……うち、覚えてる」

ジアンの口から、数日ぶりに、はっきりとした、設計士としての知性を宿した言葉が漏れた。

「これ……うちが……選ぶのに、三日三晩カタログを見て……指が痛くなるまで図面を引いて……。ジュウォンさん、これ、うちが一番好きやった……アール・デコ様式の……真鍮の……」

彼女は、自分が何を隠したのか、何を大切にしていたのかを、指先の感覚だけで手繰り寄せたのだ。

ジュウォンはギテクに向き直り、地響きのような低い、けれど確信に満ちた声で告げた。

「社長。この家は、住むための箱やない。壁に刻んだ傷、杉の柱の匂い、このドアノブの重さ……その全部が、ジアンさんの脳が忘れていくことを、代わりに覚えててくれるんです。ここにおれば、あいつは『建築士・ハン・ジアン』に戻れる。たとえ一分でも、一秒でも。……これを壊すのは、娘さんの命を、魂を、その手で絶つのと同じや!」

【父の葛藤と決断】

ギテクは絶句した。ショベルカーのレバーを握る作業員を、反射的に制止する。

目の前で、自分の娘がドアノブを愛おしそうに撫で、頰を寄せて涙を流している。その姿は、ソウルのどんな清潔で豪華な一流病院のベッドに横たわっている姿よりも、遥かに美しく、そして「ハン・ジアン」らしく見えた。

「……ジュウォン君。お前、本当に地獄を見るぞ。覚悟はできてるんか?」

ギテクは、震える声で問いかけた。

「明日には、あいつはまたそのドアノブの意味も忘れる。この家の間取りも、トイレの場所も……そしてお前の名前も、私の顔も、全部忘れて他人になるんやぞ。お前の心は、いつか限界まで磨り減って、消えてなくなるぞ」

「ええ。そしたら、また俺が教えます。ここが入口や、俺がチェ・ジュウォンや、あんたがこの家を作った世界一の天才設計士やって。……毎日、朝が来るたびに、あいつの心を一から建て直すだけです。それが、大工である俺がジアンにできる、一生の『メンテナンス』です」

ギテクは天を仰ぎ、深く、長く、憑き物が落ちたようなため息をついた。

海霧が晴れ、眩しい朝日が影島の崖を照らし出す。ギテクはショベルカーの作業員に向かって、首を横に振り、エンジンの停止を命じた。

「……勝手にせえ。だが、一箇所でも雨漏りさせたら……あるいは、あいつが一度でも悲しい顔をしたら、その時は私がこの手で叩き壊すからな。……ジュウォン君、ジアンを、頼んだぞ」

重機が去り、再び訪れた静寂。

ジアンはジュウォンの胸に顔を埋め、絞り出すような小さな声で囁いた。

「ジュウォンさん……。うち、今だけは……今だけは全部、鮮やかに覚えてる。……大好きや。……この家を、うちに残してくれて、ありがとう。うちが、うちでおれる場所を、作ってくれて……」

ジュウォンは、彼女の背中を、折れてしまいそうなその体を、自分の命を分け与えるように強く抱きしめた。

二人の頭上には、暗雲を割り、釜山の海を黄金色に染め上げる、眩い太陽が昇っていた。


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