第15話:摩耗する化学式
深夜、未完成の家のリビング。月明かりが、まだ塗装の終わっていない合板の壁を冷たく照らしている。
ジアンは暗いキッチンに立ち、震える手で薬のアルミシートを必死に押し出そうとしていた。パキッ、パキッという乾いた音が、静まり返った家の中に不気味に響く。
「……あかん。これ飲んだら、また明日も『ハン・ジアン』でおれる。明日の朝、ジュウォンさんの顔を見て、名前を呼べる。……出ろ、早く出て!」
指先に力が入らず、ようやく取り出した銀色の錠剤が床に転がる。彼女は獣のような素早さで床を這い、必死にそれを拾い上げると、水も飲まずに奥歯で噛み砕いた。
強烈な苦味が喉を焼き、食道を荒らす。しかし、数週間前まで感じられた、脳内の霧がパッと晴れるようなあの「覚醒感」は、もう二度とやってこない。
【耐性の壁:消えない霧】
「ジアン、もう寝ろ。明日は朝から屋根の仕上げや。体が持たんぞ」
二階からジュウォンが降りてくる足音が聞こえた。ジアンは慌てて薬の袋を背後に隠したが、ジュウォンはその異様な焦燥感と、彼女の口元に残る薬の粉に気づいていた。
「……また、飲んだんか?」
「……効かへんねん、ジュウォンさん。飲んでも飲んでも、脳みその中に冷たい泥水がどんどん流れ込んでくるみたいや。図面の線が、あんたの顔が、どんどん溶けていくんや……!」
ジアンは、これまで隠し持っていた大量の薬の空き殻を、テーブルの上にぶちまけた。それはまるで、彼女の人生の残り時間を切り売りした代償の山のように見えた。
「先生は言うてた。薬は時間を稼ぐだけや。完治やなくて、スローモーションにするだけやって。……ジュウォンさん、うちの時間、もう売り切れてしもたんかな? どこに行けば買い足せる? うち、まだあきらめたないんや……」
ジュウォンはその殻の山を、拳を握りしめて黙って見つめた。
医学の限界という冷徹な壁。どれほど強固な家を建てる技術があっても、彼はジアンの頭の中で刻一刻と進行している「内側からの倒壊」を止めることはできない。大工の腕では、摩耗しきった脳の神経回路を繋ぎ直すことはできなかった。
【最後の「設計変更」:物理的な絆】
翌朝、ジアンは薬の副作用による激しい目眩と重い体を引きずりながら、再び現場に立った。
しかし、今日彼女が手に持ったのは、設計士の象徴である鉛筆でもコンベックスでもなく、一本の**「太い黄色のロープ」**だった。
「ジュウォンさん。これ、玄関からキッチンの椅子まで……いや、寝室の枕元まで、ずっと家中に張り巡らせて繋いでおいて」
「……ジアン? 何を言うてるんや」
「薬が効かへんのなら、物理的に繋ぐしかない。うち、もう脳みその地図が読めへんのよ。だから、この紐を辿って歩く。文字を忘れても、道に迷っても、この紐さえしっかり握っていれば、あんたのところへ行けるやろ? あんたを、見失わずに済むやろ?」
ジアンは自嘲気味に、けれどひどく切なく笑った。
かつて複雑な迷路のような巨大建築の動線を完璧に設計した一級建築士が、たった数十平米の我が家の動線を「物理的な紐」で確保する。それは、彼女の誇り高きプライドが跡形もなく折れた瞬間であり、同時に「何があってもジュウォンのそばにいたい」という、剥き出しの生存本能の現れだった。
【不眠不休のノイズ】
その夜から、ジアンの状態は急速に悪化した。
化学物質による抑制が効かなくなった脳は、過去と現在、幻覚と現実の境界を失い、暴走を始めた。
「そこ! 梁の接合が甘い! 職人呼んでこい、やり直しや!」
深夜三時、ジアンは突然「現場監督の顔」に戻り、誰もいない暗闇に向かって叫び声を上げる。かつての厳しい彼女が乗り移ったかのように、架空の部下たちを怒鳴り散らし、やがて力尽きたように床に倒れ込んで眠る。
ジュウォンは、そんな彼女を優しく抱き上げてベッドへ運んだ後、一人で外へ出て金槌を振るい続けた。
薬が効かないなら、俺のこの腕で物理的に家を補強してやる。
あいつが全てを失い、真っ白な世界に閉じ込められる前に、この家という「最後の記憶の器」を、一分の隙もない完璧な形に仕上げなければならない。
朝日が昇り、釜山の海がキラキラと輝き始める頃。
ジアンはふと目を覚まし、自分の手首に結ばれた「赤い細い紐」を見つめた。
その紐は、壁を伝い、床を這い、窓を抜けて、外で朝日を浴びながら屋根板を打つジュウォンの背中へと真っ直ぐに伸びている。
「……これ、なんの紐やっけ。邪魔やな」
彼女は、その紐を煩わしそうに解こうとして……ふと手を止めた。
なぜこれを結んでいるのか、理由は思い出せない。けれど、**「これを解いたら、自分はもう二度と、大切な場所へ戻ってこれなくなる」**という、魂の奥底からの警告だけが、彼女の指先を震わせ、静かに止めさせていた。
「ジュウォン……さん?」
彼女が紐の先に向かって小さく呟くと、外の槌音が止まった。
紐がピンと張られ、彼女の腕に「誰かがそこにいる」という確かな振動が伝わってきた。




