第17話:最後の処方箋
「二人だけの家」が守られた翌朝、影島の高台を包む空気は、どこまでも澄み渡っていた。
しかし、ジアンは洗面所の鏡の前で、自分の顔を数分間じっと見つめ続けていた。
昨日の「奇跡」が嘘のように、彼女の頭の中にはまた、音もなく冷たい霧が立ち込めていた。目の前の鏡に映る女性が誰であるか、数秒間考え込まなければ脳が認識を拒否する。手首に固く結ばれた赤い紐だけが、自分が今、この世界の、この家に存在していることの唯一の座標だった。
「ジュウォンさん……病院、行こう」
ジアンの声は、ひどく静かだった。ジュウォンは朝食の手を止め、彼女の瞳の奥に宿る「覚悟」を読み取ると、何も言わずに使い古された軽トラックの鍵を手に取った。
もう、治らないことは分かっている。薬が進行を止められないことも。
それでも二人が再びあの白い廊下へ向かうのは、もはや絶望を確認するためではなかった。自分たちの人生という名の「建築」を、**「どう美しく終わらせるか」**という最終仕様を決めるためだった。
【診察室:医師の沈黙】
「……もう、これ以上強い薬を処方することはできません」
医師は、ジアンが持参した練習帳を手に取り、そのページを捲りながら静かに告げた。そこには昨日まで練習したはずの文字が、もはや文字の体を成さず、断絶された線の塊として散らばっていた。
「これ以上の増量は、副作用で意識が混濁し、日常生活すら困難になります。何より……あなた自身の尊厳を、薬が傷つけることになってしまう」
ジアンは、医師の宣告を驚くほど冷静に聞いていた。パニックも、怒りも、もう通り過ぎていた。彼女はただ、隣に座るジュウォンの、木の香りが染み付いた温かい手を強く握りしめた。
「先生。うちは一級建築士やから……建物の『寿命』は、自分で決めたいんや。……もう化学の力で線を繋ぎ止めるのが無理なら、最期に一つだけ、正直に教えてほしい」
ジアンの瞳に、かつての現場監督としての鋭い光が、一瞬だけ宿った。
「あとどれくらい、この人の顔を見て『ジュウォンさん』って呼べますか? ……あと何回、この人の名前を間違えずに書き残せますか? ……うちの脳の『耐久年数』、あとどれくらい残ってる?」
医師は答えられなかった。カルテを見つめたまま、ただ視線を落とす。その沈黙の長さが、どんな数値よりも残酷な回答として、室内の重力を増していった。
【帰り道の砂浜:釜山・広安里】
病院の帰り道、二人はどちらからともなく広安里の砂浜で車を止めた。
釜山の象徴である広安大橋が、青空の下で優雅な放物線を描いている。潮風がジアンの髪を激しく乱すが、彼女はそれを気に留める様子もなく、波打ち際まで歩み寄った。
彼女はしゃがみ込み、湿った砂の上に指先でゆっくりと文字を書き始めた。
『チェ・ジュウォン』
書き終えた瞬間、寄せては返す波が白く泡立ち、その文字の角を少しずつ削り、やがて平らな砂地へと戻していく。
「見て、ジュウォンさん。……うちの頭の中、今これと同じやわ。必死に指を動かして書いても、すぐに大きな波が来て、全部持って行ってまう。書いたそばから、自分が何を伝えたかったのか、わからんようになるんや」
ジアンは立ち上がり、砂を払ってジュウォンの正面に立った。彼女の背後で、太陽の光が海面に反射し、無数の火花のように弾けている。
「……ジュウォンさん。うち、もう病院には行かへん。薬も、もう飲まへん。……残されたわずかな時間は、ボーッと霧の中で眠るように過ごすんじゃなくて、あんたの匂いと、木の匂いの中で、一分一秒を使い切りたいんや。たとえ明日、何もわからなくなったとしても、今日この瞬間にあんたと笑った記憶だけを、魂の奥に叩き込んでおきたい」
「……わかった。お前がそう決めたんなら、俺はもう何も言わん」
ジュウォンは、ジアンの頬を流れる涙を、節くれ立ったタコだらけの指で、木材を慈しむように拭った。
「その代わり、一つだけ俺と約束せえ。……文字を忘れても、俺の名前を忘れても、この『手の温もり』だけは忘れるな。脳が裏切っても、手が、皮膚が、その熱を覚えとれば……俺たちは何度でも、真っ白な世界の中で出会えるはずや」
【最後の設計図:手のひらの軌跡】
ジアンは、足元に落ちていた小さな流木を拾い上げた。そしてジュウォンの左手を取り、その硬い手のひらの中心に、ゆっくりと一筋の深い線を引いた。
「……これが、うちの人生、最後の設計図。……あんたへと続く、一本道や」
彼女は流木を海へと投げ捨てた。
二人は、夕陽に染まり始めた広大な海を背に、寄り添って歩き出した。
砂の上に残された二人の足跡は、潮が満ちるたびに消えていく。けれど、二人の手首を繋ぐあの「赤い紐」だけは、激しい海風に吹かれても、決して解けることはなかった。
ジアンはもう一度だけ、ジュウォンの肩に頭を預け、そっと目を閉じた。
今、この瞬間の波の音と、彼の心音を、忘却の波にさらわれない心の地下室へと、深く、深くしまい込むために。




