113 それぞれの優秀な教師
様々な教科書、参考書をテーブルの上に広げて二人は勉強中だ。時刻は午後九時を回った。
陽からもらった遊園地のペアチケットは、結局はテスト期間が終わってから使う事に決め、とにかく今は勉強に集中するという事にした。
夜のこの時間に夕月が家にいるのは珍しく、久しぶりのお泊りに夕月もずっと上機嫌である。楓の部屋はお世辞にも広いとは言えないが、夕月にとっては広さなどどうでもいいようだ。
トイレや風呂以外は、ぴったりと寄り添うように楓のそばを離れようとしない。言うまでもなく、勉強中も常に隣を陣取っている。
最初は楓も「うざい」などと抵抗していたのだが、夕月にとって都合の悪い言葉は耳を素通りしているらしい。そのくせ、「そのパジャマ似合ってんな」などと言われると過剰なまでに喜んでいた。都合の良い耳だ。
「……髪……伸びた」
楓が集中して教科書と向き合っている間は、夕月にとっては手持ち無沙汰な時間となる。基本的には楓から分からない問題を質問して、それに夕月が答えていく形式だが、楓が問題を解いている時間は夕月は暇で仕方ない。
邪魔をする訳にもいかず、かといってイチャイチャしても邪魔になる――。
夕月は自身の髪を両手で掴んで「びろーん」などと遊んでいる。その髪が意図せずに楓の頬をペシペシ叩いていた。
「おまえはさっきから何をやっているんだ」
「……見て……玉ねぎ」
髪を一つに束ねて上へと引っ張る。なぜかドヤ顔で、それを見ていると無性に腹が立った。
「遊んでないで教えろ。これだ」
「……ふむ……これは……この公式を……応用」
「なるほどな。しかしおまえが不動の学年トップってのは今だに違和感あるな」
「…………勉強しか……する事……なかった」
悲しい事を言っているのだろうが、その言葉とは対照的に夕月は軽く微笑んでいる。「今は悲しくないよ」と言われている気がした。
「今は勉強以外にも色々とやる事できただろ? 俺との時間だけでなく、響とか陽と遊んだりとか。それなのになぜ成績が落ちないんだ?」
夕月は楓の鼻に指で触れて、「楓のため」と言いながら恥ずかしそうに俯いた。
「……楓が……困っていたら……私が…………助けて……あげたい……から」
「は? 俺のため?」
「…………うん……楓の……ため」
楓の普段の成績は、基本的には平均以上で赤点などとは無縁だ。必ずしも頼られる訳ではないのに、夕月はそれでも楓のために頑張ったと言っている。
思えば、夕月の将来の夢や進学の話などは聞いた事がない。純粋に"楓のために"。それだけが夕月のモチベーションだ。
あまりに健気な姿に、さすがの楓も動機が早まるのを感じる。
「ちょっと離れろ」
「…………え?」
「いいから! 隣じゃなくて向かいに座れよ!」
「……嫌」
夕月は不満そうに下から楓の顔を覗き込むが、一瞬で満面の笑みへと変わった。
「……顔……真っ赤」
「うるせえ、あっち行け」
「……絶対……嫌」
「ちっ。なら力づくだ!」
肩のあたりをグイグイと押して移動を促す。それでも夕月は根を張ったように動こうとしない。それどころか「とう!」と膝の上に乗ってきた。楓と夕月は正面から向かい合う形で密着した。
夕月は楓の首の後ろに両腕を回すと、そのままぐっと引き寄せて、おでことおでこをぴったりと合わせる。
「……へへ」
「おまえなあ」
「……目の前に……楓の……顔」
少し動いたら唇が触れてしまいそうな距離。至近距離で見た夕月の顔はやはり綺麗だった。長い睫毛に覆われた瞳は、瞬きもせずにじっと楓の瞳を見つめている。なぜか目を逸らす事ができなかった。
(こいつ、やっぱりとんでもないな。まるで人形……いや、人形なんかよりずっと――)
外は静かで車の音すら聞こえてこない。室内もテレビは消しているため静寂に包まれている。お互いの心臓の音すら聞こえてしまいそうな静かさに耐え切れず、楓は夕月の腕を振り解こうと試みる。
だが次の瞬間、夕月は全身を預けるように楓に体重をかけると、そのまま後ろへと押し倒してしまった。
「夕月、これはダメだ。悪戯の域を超えてる」
「……楓……好き」
「分かってる。だから落ち着け」
「……私……魅力ない……かなあ? ……子供?」
「――っ!」
――このまま一線を超えてもいい。
そんな夕月の意思が伝わってくる。
(魅力だらけだよ!! クソ!!)
楓は「落ち着け」と心の中で自分に言い聞かせると、夕月の顔を包むように両手を添えた。夕月はゆっくりと瞳を閉じる。次の瞬間――。
「食らえ!」
「……あう!」
軽く頭突きをしてやった。夕月は「なにするの!」とでも言いたそうに睨んできた。
「アホか! 勉強だ勉強!! どけ!!」
強引に立ち上がると、夕月を振り払って再びテーブルの前に座り直した。ぽかんとしていた夕月だったが、すぐに頬を膨らませて背中を叩いてきた。
それでも無視しながら楓は勉強を進めていく。
「…………しても……いいのに」
「ダメだ。前にも言ったがまだ早い」
「……私の事……嫌い?」
「んな訳ねえだろ。アホか」
「……たまには……きちんと……聞きたい」
夕月が何を求めているのか――。それは楓も分かっている。言葉にしなくても伝わるという事は、言葉にしなくてもいいという事ではない。
言葉にするのが苦手なのが神代楓という人間だった。
夕月もそれは理解しているが、"愛されている"という実感を定期的に求めてしまう。
それが小日向夕月という人間だった。
(本当に仕方ない奴だな)
「夕月」
「……なに?」
「おまえが好きだ」
「………………へへ! ……うん! ……私も……大好き!」
胸に飛び込んできた夕月を、今度は倒れずにしっかりと支える。「いい加減勉強させろ」と軽く頭を叩いた。
◇ ◇ ◇
「で、ここは?」
「ん? あーそれね!」
陽は手に持ったシャーペンを淀みなく動かしていく。授業は受けていないはずなのに、しっかりと理解しているその様子に響は感心していた。
「あんた無駄に頭いいわね」
「無駄とか酷いなあ」
「ま、おかげで私は助かるけどね!」
「左様ですか」と苦笑いの陽だが、そう言われて悪い気はしない。響は「うーん」と唸りながら参考書と格闘しているが、そんな様子を見ているのも少し楽しい。
響はバスケに関しては無類の集中力を発揮するが、勉強となれば話は別で、陽が注意しないとすぐに脱線してサボろうとする。
怒らせないように、適度に戒める――。
そのギリギリの線引きは見事なもので、そこに陽のコミュ力の高さが窺える。
そうこうしていると、早速響は"休憩"と称してお菓子に手を伸ばそうとしていた。
「響」
「ん? なーに?」
「お菓子より先に勉強」
「分かってるって! 固い事言わなーい!」
聞く耳を持たない響は、無視してお菓子を手に取った。だがそこで陽がぽつりと一言――。
「ちょっと太った?」
「……は?」
「あ、なんとなくそう思っただけだよ。ていうか俺は別に太っても響の事は好きだからさ! 大丈夫、仮に太っても愛せる。大丈夫大丈夫! 太っても!」
「…………」
響は手に持ったお菓子をそっと元の位置へ戻すと、再びシャーペンを握って参考書と向かい合う。その様子を見て陽は「うんうん」と頷いた。
「ニヤニヤしてないで教えなさいよ! あんたが教えるの遅いから時間無くなりそうじゃない!!」
「理不尽!!」
それでもやっぱり尻に敷かれるのは陽になりそうだ。




