112 日常回帰
「ほんっっとにもう!! 心臓止まるかと思ったわよ!!」
やかましいぐらいの声量で早朝から叫んでいる響を見ていると、「こいつやっぱり陽の彼女なんだな」と変に納得してしまった。
最近は陽のうるさいぐらい元気な挨拶を聞いていない。別に求めている訳ではないが、そんな些細な事でもいざなくなってみると、日常の一部にぽっかり穴が開いてしまったようで、不思議な虚無感に襲われた。
朝食を終えた三人は並んで学校へと向かう。放射冷却のお詫びだろうか、まだうっすらと霧が残っているがだいぶ暖かくなった。
隣の夕月に目をやると、顔の周りを真っ白なマフラーでグルグル巻きにしている。時期的にマフラーはまだ早いような気もするが、よく考えてみると夕月が楓の家に来るのは早朝で、しかも自転車で来ている。冷たい風を凌ぐのには必須だったのだろう。
「夕月ちゃん、アホみたいに可愛いね。マフラー姿」
「……朝……夕は……もう寒い」
「マフラーにつけられてる感じが笑えるな」
「……あったかい」
美少女にマフラーというのは鉄板の組み合わせなのだろうか。鼻から下をマフラーに覆われていて、それでも美人と分かるのが恐ろしい。
夕月は時折道路に張った氷を避けるようにぴょんぴょん跳ねている。背中に垂れる二本の白いマフラーの先端、それが夕月の動きに合わせて揺れる度に、なぜか笑いが込み上げてくる。
「あぁ、そういう事か。ウサギか」
「……ん?」
「なんでもねえよ」
乱暴に頭を撫で回すと、頬を桜色に染めて嬉しそうに微笑む。真っ白なマフラーと相まってあまりに綺麗で、思わず見惚れてしまった。
「あのー、私もいるからね? 寒いけど暑いんですけど?」
「寒いぞ。頭おかしいのか?」
「あんたねえ!! まあ、今日の夕月ちゃんはグロいぐらいに可愛いもんね。仕方ないか」
「そうだ!」と何かを思い付いたようで、響は夕月の前で手を合わせて懇願を始める。夕月教にでも入信したのだろうか。
「お願い! 今日の夜二人でお泊り勉強会やるんでしょ? 私も混ぜて」
「……うん……もちろ」
「悪い、ダメだ」
そう言い切った楓の様子に驚いたのは夕月だ。夕月も本心では楓と二人がよかったのだが、「楓はきっと三人でも承諾するだろう」と思っていた。
夕月にとっては嬉しすぎる誤算のようで、小さな身体は小刻みに震えていた。言うまでもなく寒さからではなく、歓喜から来る震えだ。
そんな楓の様子に響が食ってかかる。
「なんでよ! いいじゃない! やましい事するんじゃなくて勉強でしょ!?」
「ダメだ。俺が教えてもらえる時間が減るだろ」
「なんて奴……理由はそれ?」
「おう。赤点取らないように精々頑張れ。死ぬなら一人で死ね」
「くっ!!」
夕月はがっくりと肩を落とした。楓は専属での家庭教師を希望していて、「二人でいたい」などという恋人らしい甘い考えではなかった。
だが、そう話した楓にも考えがあって、安易に響を切り捨てたつもりではない。
「陽に聞けよ。あいつは多分入院してても一人で勉強進めてるはずだ」
「そんな訳ないじゃない。なんでそう思うのよ」
「あいつにとって勉強は重要だからだ。絶対にサボらないし、手を抜かない」
叶えたい夢があるから手は抜かない――。
ボクサーとはまた違うが陽にも夢がある。だから楓には確信があった。陽は限られた時間を無駄にするはずがない。
夕月と喧嘩中、一時は途方に暮れた楓だったが、それでも陽に頼るという考えはなかった。単純に怪我人の力を借りるのを躊躇った。陽に勉強を教えてもらうという選択肢も勿論あったが、あまり負担をかけたくはなかったので、それは最終手段だと決めていた。
だが、恋人の響なら話は別だろう。陽だってなるべく長い時間一緒にいたいだろうし、勉強だって喜んで教えるはずだ。男同士の関係とは違ったものがある。夕月と一緒にいる楓だからこそそれが分かった。
「ふーん、まあ陽は暇あれば勉強してそうだけどね」 「だろ? あいつ見た目はチャラいけど中身は意外としっかりしてる」
「そうでなければ困るのよ。私が陽を好きになったのはそういう面もあるんだから」
「……響ちゃんの……惚気」
「おい、色ボケしてんじゃねえぞゴリラ女。キモいぞ」
「こ、この男!!」
なにはともあれ、響は陽に勉強を教わる事にしたようだ。楓の真意にがっかりした夕月だったが、「結果オーライ」と小さな両手をグッと握り締めた。
◇ ◇ ◇
昼食はいつも夕月達と一緒なのだが、今日は一味違う。というか二味ぐらい違うかもしれない。
「ほう、それが小日向が作った愛妻弁当か」
「妻じゃないけど、夕月が作ったやつですね」
視線の先にはあずみが座っており、テーブルにはそれぞれ持参した昼食を用意している。
すっかり生徒指導室の常連になってしまった。テーブルを挟んで対面に座ったあずみは、長い脚を組んだままで食事を始めようとしている。実に教育に悪い行儀の悪さだ。
「食事中脚組むのはどうなんですかね」
「固い事言うな。私とおまえの仲だろう?」
「先生と生徒ですね。他にどんな仲でしたっけ?」
「次授業中寝ていたら叩き起こすぞ?」
「忘れていました。とても深い仲でしたね」
「分かればいい」
あずみは手元の腕時計で時間を確認すると「よし!」と目の前に置かれた容器のフタを剥がしていく。あずみの昼食は大きめのカップラーメンとサンドイッチのようで、パッと見でも栄養の偏りが酷い。
目の前で美人がカップラーメンを啜る姿には、なかなか精神的にくるものがある。
楓の「うわあ」という視線を全く気にする事なく、淡々とあずみは食事を進めていく。豪胆だ。
「ハズレだな。新商品と聞いたが和風にニンニクは合わない」
「昼にニンニク入りラーメンとか正気ですか?」
「大丈夫だ。口臭対策の錠剤は完備している」
――そういう事じゃない。
突っ込んでやりたかったが、あまり深入りするとやぶ蛇になりそうな気配がして、出かかった言葉を飲み込んだ。代わりに小さく溜息をついて、楓も食事を進めていく。
二人共食べ終わると、あずみはコーヒーカップを目の前に置いた。
「でだ。例の兄弟。逮捕されたらしい」
「でしょうね」
「弟のほうがボコボコにされていたらしいが、どうやら兄弟喧嘩みたいだな。兄弟ともにそう言い張っていたそうだ」
「そうなんですか」
「…………はあ。おまえだろ?」
「何の事ですかね?」
「隠さなくていい、結果だけ教えろ。上手くやれたか?」
楓はあずみをじっと見つめる。その瞳は既に全てを察しているように見えた。「やれやれ」といった感じに微笑んでさえいた。
そんなあずみの様子を見て楓も観念した。素直に全てを話したほうがいいと思った。
「なるほどな。おまえの傷はもういいのか?」
「はい。奴はパワーが異常でしたがウスノロだったので。パンチを殺しながらもらいました」
「そうか」
一言だけそう言うと、あずみはコーヒーカップに口をつけ一気に飲み干した。既に空の楓のカップを回収して新たにコーヒーを淹れている。
怒っている様子ではなかったが、ずっと無言の時間が続く。
「ま、とりあえずは結果オーライだ。だが次はもっと詳しく話せ。金田が双子だった可能性、おまえ薄々気付いていたんだろ?」
「……はい」
「信用しろ。私はおまえの味方だ。そして将来的には神代楓の熱狂的ファンになる」
楓の肩をバンバンと叩きながらあずみは笑っている。「あまり気を遣うな」と言われているようで、少しだけ嬉しくなった。
コーヒーを飲み終えるとちょうど予鈴が鳴った。「では行け」と軍隊の命令のように退室を促され、楓は苦笑いしつつもそれに従う。嫌悪感はなかった。
◇ ◇ ◇
「よう。どうだ?」
「完治にはまだかかるけど、もうすぐ退院かな」
今現在陽の病室には楓、夕月、響がいる。楓のロードワークに夕月と響が付き合った形だ。
完治にはまだまだ時間がかかるが、陽は日増しに元気になっている気がする。ベッドの脇には教科書やら参考書やらが山積みになっており、やはり学校に行かなくても勉強は進めているようだった。
「どこまで勉強進めてんだ?」
「うーん、時間は腐る程あるからさ、かなり先の方まで進めてるよ」
「やった! さすが陽! 教えて。いや教えなさい!」
「はいはい」と優しく笑いながら陽は響に勉強を教えている。邪魔するのもどうかと思ったので、夕月に視線で合図を送ると帰り支度を始めた。
「じゃ、俺らは行くぞ」
「……さらば」
「あ、ちょっと待って楓!」
「ほい!」と何やらチケットのような物を投げてよこした。中身を確認してみると、近場の遊園地のペアチケットだった。以前夕月と行った事がある場所だ。
「ん? どうしたんだこれ?」
「色々心配させちゃったしさ、これでも凄く感謝してるんだよ。それ貰い物で悪いんだけど、夕月さんと楽しんできてよ」
「……」
手元のチケットをじっと見つめていた楓は、それを陽に返そうとしたが――。
「どうせおまえの事だからさ、「俺のミスで陽はこうなった」とか思ってんだろ? 違うぞ、おまえのせいなんかじゃない」
「だが」
「あーあー! 聞こえなーい! そのチケットも返却不可でーす!」
「……」
「じゃ、俺と響は勉強するから二人共帰った帰った!」
半ば強引に楓と夕月は病室から追い出されてしまう。去り際に「楓、ありがとうな」と小さく伝えられた。
(礼を言うのは俺のほうだ。馬鹿が)
もらったチケットを夕月に手渡すと、両手でしっかりと持って嬉しそうに眺めている。「受け取ったからには行かないとな」と楓は小さく呟いた。
「……楓……嬉しそう!」
「まあな。おまえも嬉しそうだな」
「うん!」と微笑んだ夕月を見て、心の中で再度陽に感謝した。
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