111 お返しに抱き締めてみます
「いるわけない、か」
ぽつりと自然に溢れた言葉に、楓は呆れたように自嘲した。
時刻は朝の四時半。
怠い身体をゆっくりと起こし、カーテンを開けると空には群青色の幕だ。日の出前のこの時間は、普通の高校生であればまだ夢の中であろう。
手早く身支度を済ませると、炭酸水をコップに注いで一気に飲み干す。乾いた身体に染み渡る感覚が心地良い。
玄関のドアを開けて、静かに閉めると鍵をかけた。
「寒いな」
吐く息は当然のように真っ白で、吸い込んだ空気は冷たすぎて、身体の芯から熱を奪われるように感じる。地面に張った氷の上で軽くステップを踏むと、パリパリと足元から音が聞こえてきた。
道には車どころか誰一人として歩いていない。ほんの一ヶ月前までは犬の散歩している主婦などを見かけたが、寒さも増したこの時期にはそんな姿はめっきり減った。
(よし、じゃあ行くか!!)
色々と悩んでいる事があっても身体は正直で、一度熱を帯び始めると一瞬で沸点だ。「ボクシングよりマラソンのほうがいいんじゃないか」と言われてもおかしくないぐらい、最近はひたすら走っている。
「きついな、さすがに――」
今日はいつもより余分に走ってしまった。最初は雑念を消すつもりで、「ちょっとペース上げてみるか」程度だったのだが、走っていると思いのほか気分が乗ってきて、結局は限界以上に追い込んでしまった。
脚がガクガクと震えているが、クールダウンも必要なので、止まらずにスローペースで走りながら息を整えていく。
そうして自宅に着いたのが午前六時半。共用部の階段を登っていき、自宅のドアに鍵を入れて回す。
なんの引っかかりもなく空回りした鍵を、元の位置まで回すと引き抜く。
(……)
ドアを開けると、もう見慣れた小さな靴が一組。玄関の隅にちょこんと並べられている。
「……お……おはよう」
「よう」
壁から顔を半分だけ出して、夕月は控えめに朝のあいさつをする。楓から見えるのは顔半分だけだが、不思議と夕月の気持ちが伝わってくる気がした。
玄関で靴を脱ぐと同時に、夕月は楓の視線から逃げるように姿を隠す。楓はゆっくりと部屋へと入る。
テーブルに並べられた朝食、作ってくれた人の姿はそこにはない。ふと横を向くと、部屋の隅でオロオロしている夕月がいた。エプロン姿で胸にはウサギさんのワッペンがついている。
「…………あ……あの」
「作ってくれたんだろ? 座れよ、食おうぜ」
夕月はきょとんとしていたが、楓に促されるがままに定位置に座る。
そのまま二人とも無言で食事を終えると、ようやく楓が話し始めた。
「その、なんだ。あれだ」
「……?」
「悪かった。朝食も助かる」
「……怒って……ない?」
不安そうな瞳は今にも泣き出しそうに潤んでいて、楓の様子を恐る恐る伺っている感じだろうか。手荷物から交換日記を取り出すと、目の前で広げて見せた。
無数のウサギさんの絵で埋め尽くされているページを見て笑いそうになる。だが、よく観察してみると下の方に小さな文字で何か書いてあるようだ。
『昨日はごめんなさい。勉強、私が教えてもいい? 条件なんてつけません』
夕月らしい気弱な文章だが、その上にある怒っている(?)であろうウサギさんの絵を見ると、感じる印象が正反対だった。
(怒りまくった末に諦めて謝った、って感じか)
「だったらウサギ消しとけよ」と思ったが、謝る事だけを考えて他は見えていない、というのが夕月らしいなと思った。
「俺は何をすればいい?」
「…………え?」
「勉強教えてくれるんだろ?
「……いい……私が……教えて……あげたい…………だけ」
「別に嫌々じゃねえよ。おまえの望みだろ? だったら可能な限りは叶えてやりたい」
「――っ!」
「昨日は悪かった。教えてもらう立場だ俺は。そこは響の言う通りだった」
夕月はこれ以上ないぐらい顔を真っ赤にして、あわあわと視線を泳がせている。何かを伝えたいんだろうが、上手く言葉にできないといったところか――。
本人は大真面目なのだろうが、慌てふためく様子は見ていて飽きないし可愛らしい。
「……えっと…………えっと」
「それ、ちょうどいいから書けよ。話すより早いだろ?」
「それだ!」といった感じで夕月は交換日記に向かい合う。少し間を置いて何やら書き始めた。
「…………じゃあ」
五分ほど経って、夕月は再びノートを開いて楓に見せてくる。
『今日、泊まりたい。それとぎゅってして欲しい。息ができないぐらい強めに』
「さりげなく希望が二つ書いてあるぞ?」
「……うむ」
「うむ、じゃねえよ」
わざとらしく「はあ」と大きめの溜息ついてみるも、夕月はニコニコと笑顔のままだ。楓が折れるのを確信しているのだろう。
今回の喧嘩は主に楓に原因があっただろう。それは楓自身も自覚したし、きっちりと反省もしている。
(まあ、仕方ねえか)
「仕方ない」と心の中で思ってみても、勿論本心から嫌な訳ではない。ただ若干恥ずかしいというか、柄じゃないというか――。
"好きな女性には意地悪をしたい"というあの現象に近いかもしれない。
「他人との繋がりは煩わしい」というのが元々の性分の楓にとっては、「意地悪をしたい」というのはニュアンスが異なるが、自発的に誰かを想うとすれば、それは夕月だけなのだろう。
やはりというか、あらゆる面で夕月は特別だった。
「分かった、明日休みだしな。よく考えたら勉強するんだから泊まってもらうのはありがたいか」
「……うむ」
「で、あと一つだな。こっち来い夕月」
「抱き締められたい」と条件をつけたものの、まさか今、この場所でとは思っていなかったのだろう。夕月は混乱したままで、それでも楓の手招きに従って近寄っていく。
「それにしても、そのエプロンのワッペン。相変わらず間抜けなクマだな」
「……ウサギさん!」
「はいはい、そうだったな。ウサギな」
「……むう……。――っ!!」
夕月の全身を包み込むように、いきなり強く抱き締めた。抱き合っているのではなく、一方的に楓が夕月を抱き締める形だ。両腕の上から抱いているため、夕月は身動き一つ取れない。
「……ん」
「苦しくないか?」
「……苦しい……幸せ……すぎて」
「そうかよ、そりゃよかったな」
触れ合った身体から柔らかさが伝わってくる。甘ったるい夕月特有の匂いは、ずっと嗅いでいると頭がおかしくなりそうだ。嬉しそうに顔を胸板のあたりに擦り付けてくる。
「……心臓……動いてる」
「当たり前だろうが。俺はロボットか?」
「……この音……好き」
「変わってるな」
色々と柔らかい部分に触れていると、さすがに理性が崩壊しそうになってきたため、「そろそろか」と夕月から離れようとした、が――。
「おい、何してる」
「……」
「おい」
「……抱きついて……いる」
「楓から抱き締めてもらったから、次は私の番」という事らしい。夕月からすると一度で二度美味しい。当然のように全力で楓にしがみつく。
「離れろ!」
「……うぎぎぎ!」
「離れろ!」
「……断る!」
必死に引き剥がそうと試みるも、夕月は腕だけでは不十分と感じたのか、あろう事か両脚も使って必死に絡みついてきた。
「……離れぬ!」
「離れろ! 胸! 当たってるから離れろって!」
「……胸の……一つや……二つ!」
「お、おい危ねえって!!」
結局、楓と夕月は密着したまま床に倒れてしまった。楓が夕月に覆い被さる形で、夕月は相変わらず楓に抱きついたままだ。
「……これ……いい」
「いい、じゃねえよ。俺の理性ぶっ壊すつもりかおまえは」
「……壊れれば……いいのに」
そうこうしていると、玄関のドアが開いた。
「楓ー!! 今日は夕月ちゃん来たー!?」
遠慮なく玄関を開けた響は、目の前の光景を見てぽかんとしていた。数秒後、その顔がみるみる紅潮していく。
「あ、あああああんた!!!! 朝から何やってんのよ!!!!」
「何って、見ればわかるだろうが」
「そういう事をするなら鍵を閉めてよ!! 夕月ちゃんもよ!! 止めはしないけど気を付けなきゃ!!」
「はあ? 何言ってんだこいつ?」と思った楓と、首を傾げた夕月。二人は不思議そうに響を眺めていた。
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モチベがガンガン上がります!




