誰もいない部屋③
アシュレイン領に、本格的な夏が訪れていた。庭には強い日差しが降り注ぎ、少しの作業でも汗ばむ温度。主のいないあの部屋も、寝具やカーテンなど、すでに夏の物へ衣替え済みだ。意味がないことは分かっている。けれど、何年も染み付いてきた習慣を、手放すことができなかった。
もし、何かあって帰ってきた時のために。
そんな起こり得ないことのために、今日も部屋を整えた。何も考えず、ただ、淡々と。
星涙石の採掘は、モルディエ家の参入により、順調に進んでいる。出荷が安定したことで、市場価格はさらに上がった。雇用も生まれ、アシュレイン領はさらなる賑わいを見せた。
旦那様は、報告の書類に目を通すたび、言い聞かせるように「良い縁談だった」と呟いていた。そう思うしかなかった。もう、お嬢様と連絡が途絶えてから、何ヶ月経っただろうか。気付けば、秋の足音が聞こえていた。
◇
ある日、クラウスの付き添いで、夜会に出た時だった。セレスティアがいないかと見渡してみたが、その姿を捉えることはできなかった。主人を待つ間、控え室で待機していると、耳を澄ませずとも、扉の向こうから大きな話し声が響く。
「ねえ、お聞きになった?モルディエ家の若奥様、最近ちっとも社交の場に出て来ないんですって」
思わぬところで、求めていた人の話題が耳に届き、心拍数が上がる。
「確かにお見かけしないわね。お世継ぎでもできたのかしら?」
「それが、まだみたいで……随分、現当主様に急かされてるみたいよ。ほぼ、毎日のように……ってモルディエ家の使用人が言っていたそうよ」
「まあ、それは……。大変ですけど、愛されていらっしゃいますのね」
——世継ぎ。貴族である以上、避けられないことだ。いつか、彼女が子供を抱える姿を見るのだろう、と覚悟はしていたつもりだった。いざ耳にすると、心臓が痛む。
「でも、あんなに素敵な旦那様だったら、毎日求められても嫌な気はしませんわよね」
「若奥様も美しい方ですものね。とは言えまだ結婚されて数ヶ月なので、少しお気の毒ですわ」
「なんでも、新しいお屋敷でお仕えしていた使用人も、女性しかいなくなったとか」
頭がひどく痛い。いつの間にか強く握っていた拳で、爪が食い込んでいた。立っていられず、その場にしゃがみ込む。
大丈夫。彼女は、お嬢様は、幸せに暮らしているはずだ。誰よりも、そうあるべきお方なのだ。ただの下世話な噂話に過ぎない。言い聞かせるように頭を振り、息を整える。
それでも、想像してしまう。頭の中に、見たくない光景が滲み出てくる。彼女の美しい髪を掬う、自分では無い男の指先。あの華奢な肩を、腕を、腰を——。
部屋の隅に走り、洗面台に顔を近づける。胃の中のものが、迫り上がってくるようだった。ふらつく身体で咳き込んでいると、部屋の扉が開き、夜会から戻った主人が姿を見せた。
「……セオドア!大丈夫か、ひどい顔色だ」
床に膝をついていた自分に驚いたクラウスが、慌てて駆け寄って来た。支えられるように、椅子へ座らせられる。
「申し訳ございません」
「いいんだよ……。その、さっきの会話、聞こえてたのだろう?」
答えられず俯くと、クラウスは大きくため息をついた。
「……噂に過ぎない。が、さすがに心配だよな。今度、必ず会いに行ってくるから」
肩にそっと触れる優しい手。この方も、妹が心配で堪らないだろうに。堪えるように頷けば、クラウスは眉を顰めて微笑んだ。




