誰もいない部屋④
宣言通り、クラウスがモルディエ領に向かって三日後の夕方だった。
出迎えた自分に、クラウスは「ただいま」と言って力なく笑った。外套を受け取る手が、やけに冷たかった。
「……お会いできましたか」
「いや、門前払いだったよ」
執務室に付き添い、温かい紅茶を差し出す。クラウスはカップに口をつけないまま、湯気を見つめていた。
「約束が無いので、と言われてさ。対応してくれたのは、メイド長だと名乗っていたよ。『お二人ともご不在でございます』って、丁寧に何度も頭を下げて。……あれは、断り慣れているように見えたな」
何か考え事をしているのか、視線が動かない。
「……帰ろうとして、門を出る前に屋敷を振り返ったんだ」
クラウスが、カップの淵に指を滑らせた。
「二階の、端の窓に、ティアがいた」
思わず息を止める。
「ガラスに、手をついてた。こっちを見てたんだ……」
クラウスの声が、わずかに掠れる。
「少し痩せていたと思う。遠くて、表情までは見えなかったけど。……それでも、間違いなく、あれはティアだった。兄が、妹を間違えるものか」
手を振ろうとしたのだと言う。名前を叫ぼうとして、口を開いた。
その瞬間に、彼女は部屋の奥へ引かれるように、消えた。
「自分から隠れたのか、誰かに引かれたのか分からない。ほんの、一瞬の間だったんだ」
部屋の空気が一気に冷え込んだ。
窓辺の、彼女の姿を想像する。冷たいガラスに触れる細い指。屋敷の外にいる兄を見つめる、藤色の瞳。何かを、伝えようとしていたのでは無いだろうか。
目の奥が、じわりと熱くなっていく。
「……なぜ」
そう言いかけて、言葉を噤む。
なぜ引き返さなかったのですか、なぜ連れ出さなかったのですか。そう、訴えかけたかった。けれど、目の前の主人の顔色が、紙のように真っ白だったことに気づく。この方が一番、そう思ってるに違いないのだ。
「……父上に報告する。さすがに、おかしい」
クラウスは視線を上げ、瞳に強い光がこもった。
「アシュレイン家として、正式に面会を願い出よう。日取りも、手紙も、明日には出せるように手配する。……そうなれば、さすがに無視もできないだろう。今度こそ、絶対にティアに会って、可能ならそのまま里帰りさせる」
「私も……」
「お前はダメだ」
自然と出た言葉が、即座に遮られる。
「セオドアはいつも通り、この屋敷で待っててあげてくれよ。お前が出迎えるのが、ティアは一番安心する。俺が、必ず連れ帰るから。……な?
その目は、確かに力強く輝いていた。
確かに、自分がモルディエ家に行っても、身動きが取れないだろう。セレスティアのことになり、冷静さを失っていた。
「かしこまりました」
それだけ言って、深く頭を下げた。
クラウスは何も言わず、優しく微笑んでから、自分の肩を一度だけ叩いた。
◇
その夜、旦那様の執務室の灯りは、遅くまで消えなかった。
何度も話し合いながら、手紙の内容を詰めていく。その姿を見ながらも、合間に、温かい紅茶と夜食を差し入れることしかできない。自分の力の無さを、ひどく呪った。普段通り淡々と、仕事をこなすしかないのだ。彼女の部屋は、少し前から秋仕様に模様替えをしていた。ベッドの上には柔らかい毛布を。カーテンは少し暗めの色を。不備が無いかだけを確認し、セレスティアの無事だけを願いながら、そっと白い扉を閉じた。
自室に戻り、首元のチェーンを引き出して静かに握る。それから、窓辺で星に祈る。いつの間にか、これが習慣になっていた。彼女がこの屋敷を去ってから、ずっと。
夜空に一筋、星が流れていく。
この祈りは届くことは無かった、と後になって思い出した。




