誰もいない部屋⑤
11月9日——
朝から冷たい風が吹いていた。秋が深まり、庭の草花も少しずつ眠りにつき出す。毎日のように、庭の落ち葉の掃除に追われていた。
旦那様は仕事で王都へ出ていて、屋敷にいなかった。ようやくモルディエ家への訪問の日取りが決まった。その約束を来週に控え、仕事を片付けてくるとのことだ。留守を預かっていたのは、長男のクラウス。その二日目の午後のことだった。
銀のカトラリーを磨く手を止め、窓の外を見る。木々の葉がどんどん落ちていき、朝掃除したばかりなのにな、と少し憂鬱になった。
『お前が出迎えるのが、ティアは一番安心する』
クラウスの言葉を、あれから何度も反芻していた。いよいよ来週。セレスティアが戻って来られるかは分からない。けれど、もし帰ってくるのならば。自分は普段通り、玄関で出迎えよう。「お帰りなさいませ、お嬢様」といつもの声で。少しでも、彼女が安心できるように。家に帰ってきたと思えるように。
目の端で、何かが動いた。顔を上げると、門番が馬車を通したのが確認できた。
——モルディエ家の、馬車だ。扉に紋章入り。間違いない。
心音が一気に早くなる。手のひらが冷たくなっていく。目が離せないまま、馬車は玄関へ向かって行った。覗き込むも、この部屋からではその先を見ることができない。
「あれって、モルディエ家の馬車よね……」
「セレスティアお嬢様が、お戻りになったのかしら!」
同じ作業をしていた使用人たちも気づき、浮き足立っている。がらんとした食堂が騒めいていく中、手からクロスが滑り落ちた。指摘されるまで、落としたことにも気づかなかった。
「セオドアさん、行ってきたらどうかしら……」
落ちたクロスを拾い上げてくれたメイド長が、静かに呟いた。
「そうですよ。きっと、お嬢様も喜ばれますよ!」
周りの使用人たちも、そう声をかけてくれた。
「……いえ、まだ仕事中ですし。お嬢様と決まった訳でも……」
「お嬢様をお迎えするのが、あなたの仕事でしょ!さ、身だしなみだけ整えて行ってらっしゃい!」
押されるように食堂から出され、振り向くと皆が笑顔を浮かべていた。深くお辞儀をし、自室に急ぐ。作業のために脱いでいたジャケットを羽織り、緩んだタイを締める。姿見で全身を確認し、急いで玄関へ向かう。かつて、屋敷を走るお嬢様に何度も注意したことも忘れ、廊下を走った。
なぜ今日、急に。けれど、人を驚かせるのが好きな方だ。自分もよくいたずらを仕掛けられては、その度に窘めていた。大きく口を開けて笑う姿が、今でもすぐに思い出せる。
玄関の前に、人が集まっているのが見えた。その中心に、クラウスが居る。セレスティアと同じ色の金髪が、勢いよく振り返った。
「セオドア!来るな!」
聞いたことのない、鋭い声と視線。子供のころからこの屋敷に出入りしていた自分と、同い年のご令息。昔から変わらない気さくな人柄で、仲良くなるのに時間は掛からなかった。そんな彼の、こんな姿を見るのは初めてだった。顔色は青白く、その手には封の切られた書状が握りつぶされていた。
「ク、クラウス様……?」
なぜ、そんなことを?クラウスの隣に居た、実の父である執事長も、眉を顰めて首を振っていた。何か、あったのだ。この二人が、客人の前で表情を崩すなど、普段ならありえない。
しばらく動けずにいた。
視線が、クラウスの肩越しに、馬車の荷台へ吸い寄せられた。
——時間が止まった。
中から運び出され、玄関に置かれたのは黒い箱。大きな、大きな箱だった。
こんなの、まるで棺じゃないか。ゆっくりとクラウスに目を向ければ、清らかなアメジストの瞳に涙が浮かび、一筋伝った。
出迎えるはずだった。
「お帰りなさいませ」といつも通り、言うはずだった。
笑顔の、「ただいま、セオドア!」を聞けるはずだった。
彼女の部屋で、今夜も髪を梳かすつもりだった。
周りの音が聞こえなくなっていく。客人が何かを告げて深くお辞儀をし、帰っていく間も、動けずにいた。心の奥の冷たさが、じわりと全身に広がっていく。
待ち望んでいた主の、声なき帰還だった。




