誰もいない部屋②
庭の薔薇の花が咲いたのは、セレスティアが発って十日ほど経った朝だった。
庭師のヴェールに呼ばれ、庭の中央に足を進める。アーチに巻き付いた蕾が、一斉に咲き誇っていた。その花の色に、思わず目を細める。
「セレスティアお嬢様の瞳に、一番近い品種を選んで植えたんですよ」
フォレストグリーンのエプロンを揺らしたヴェールが、少し照れくさそうに笑った。
見せてあげたかった。彼女も楽しみにしていたのだ。瞳と同じ淡い藤色の品種を、ヴェールが仕入れたと聞いた日から。
胸の奥の暗い場所が、きしりと鳴った。開花を待ち望んでいた彼女の言葉が、今も耳に残っている。
——きっと、綺麗に咲くわよね。
この色を見かけるたびに、同じ色の瞳を思い出すだろう。自分だけでなく、彼女を知るすべての者が。
一輪だけ分けてもらい、花弁を丁寧に分けてから本の間に挟む。その上に重しを乗せた。彼女が好きだった物語。この国の星信仰をモチーフにした恋の話。結ばれなかった男女が、「来世で必ず会おう」と死に別れ、見事巡り会うというストーリーだ。
セレスティアから聞いたあらすじに、「ご都合主義やしませんか」と呟いてしまった。すると彼女は頬を膨らませ、「物語の中くらい、いいでしょう。相変わらず、お堅いのね!」と不貞腐れてしまった。
それから同じ本を購入し、人知れず最後まで読み通した。これは、相手の幸せを心から願う、優しい愛の話だ。その気持ちは、まるで——。そこまで考えて、無理やり押さえ込んでいた気持ちに、また重く蓋を落とした。溢れてはいけないものだったからだ。従者が、主人に向けてはならない感情。思い出しそうになり、慌てて頭を振った。なんにせよ。彼女はもう手の届く場所にいないのだ。
数日して、薄く平らになった花弁を、小さな栞に仕立てた。すでに薔薇の花は散ってしまったが、これなら届けられるかもしれない。合わせて、カードに短く書き記す。短い文章なのに、何枚も書き損じてしまった。
『庭の薔薇が、見事に咲きました』
誰からのメッセージなのか、気づかれなくてもいい。でも、気づいてくれたら嬉しい。そんな思いを込めた。
「クラウス様、お願いがございます」
栞とカードを差し出すと、何も言わずとも、クラウスが小さく笑った。
「……わかった。俺の手紙に混ぜておくから、安心しろ」
「ありがとうございます」
「いいって、これくらい」
クラウスが便箋と封筒を取り出し、筆が紙の上を滑っていくのを、黙って見つめていた。
◇
返事は、一週間ほどで届いた。
クラウス宛の手紙に、小さなカードが同封されていた。それを、指先で掴んでは何度も読み返す。
『栞、ありがとう。これも一緒に、大切にします』
それだけの文字。けれど、頭の中で、彼女の声で再生されては動けなくなる。同じ一行を、慈しむように目でなぞった。
柔らかく、丁寧な文字。確かに、彼女の字だ。
使用人宛に書くわけにはいかない。それでも、きちんとわかるように答えてくれる。そんな優しいところが——。
「おい、泣いてるのか」
クラウスが、揶揄うように言った。慌てて表情を引き締めると、声をあげて笑われた。さすがご兄妹、よく似ている。
それから何度か、手紙に混ざったメッセージのやり取りが続いた。
薔薇を含めた、庭の様子を尋ねるもの。
屋敷の皆が元気かと気にかけるもの。
お互いの一文は、簡素で短かった。けれど、それが何よりの楽しみになっていた。大切に、小さな箱に保管する。
あの夜、彼女を拒んでしまった自分に、まだ言葉をくれるのだ。それだけで、十分だと思った。思おうとした、という方が、正しいのかもしれない。
◇
けれど、その間隔は少しずつ空いていった。数週間ごとのやり取りだったのに、もう一ヶ月以上も返事が来ないままだ。最後のメッセージもどこか温度がなく、先月届いた手紙には、メッセージカードが入っていなかった。
クラウスが何度手紙を出しても、返事が返ってくることはなかった。そのまま季節は移ろい、夏になった。
旦那様がモルディエ家に面会を願い出たものの、「セレスティア様は体調が優れない」「社交で多忙にしている」と、屋敷の者から丁寧な断りの手紙が届いた。そう言われてしまえば、こちらも侯爵家相手に強く出られない。
「新婚ですもの、忙しいのでしょうね」
奥様は、悲しそうにそう告げて、手紙を畳んだ。アシュレイン家の誰にも、彼女からの手紙が届くことは無くなった。屋敷の灯りが、ひとつ消えたようだった。
誰も、何も言わなかった。それでも彼女に届けばと、クラウスは手紙を出すたびに、祈るように封を見つめていた。




