誰もいない部屋①
朝、彼女の部屋を一番に訪れるのが、一日の始まりだった。顔色から体調を確認して、予定を告げながら朝の紅茶を淹れる。朝日を受けた湯気がゆっくりと漂う、何気ない、尊い日々。
あの部屋を開けても、もちろん誰も居ない。主を失った部屋は、どこか冷たい空気を纏っていた。
セレスティアがモルディエ領に向かってから、一週間が経った。挙式から戻った旦那様は、疲れ切った表情を浮かべていた。けれど、声色は明るかった。
「盛大な式だったよ。ティアは、皆に歓迎されていたよ」
何度も繰り返す旦那様の横で、同じく参列された奥様も頷いていた。セレスティアを迎え入れるために建てられたという屋敷も、見事な邸宅だったという。派手さはないが落ち着いた内装に、手入れの行き届いた庭。それから、気の利く使用人たちが、彼女を歓迎していたそうだ。
「ライナルト殿になら、安心して任せられる」
旦那様は、そう静かに断言した。笑顔を浮かべつつ、複雑だった。胸の奥に、深海のように光の届かない場所がある。セレスティアが婚約を決めたあの日から、ずっと。
それでも、彼女が快適に過ごせる環境に身を置いていると知り、安堵している自分もいた。
これで、良かったのだ。何度目かわからない言葉を、また飲み込んだ。そして、そんな時は必ず、彼女と初めて会った日のことを思い出してしまう。
◇
「セオドア、セレスティアお嬢様にご挨拶なさい」
よく晴れた日だった。忘れもしない10年前の春。12歳になる年だった。父に連れられ、アシュレイン家を訪れた。
我がヴェスペリア家は、代々アシュレイン家に仕えていた。それが、一族の誇りであった。そして自分も、主人に生涯をかけてお仕えしようと、心に決めていた。
雇い主である旦那様にご挨拶をしてから、白い扉のある部屋に向かった。中にいたのは、太陽の光を受けて輝く金色の髪。それから、柔らかな藤色の瞳。まるで、物語のお姫様のようだと思った。彼女は一瞬目を見開いてから、ふわりと笑った。一瞬で、穏やかな空気が部屋を包んだ。
「……セレスティアお嬢様、お初にお目にかかります。セオドア・ヴェスペリアと申します」
父に習った通りのお辞儀をすれば、彼女は静かに立ち上がった。
「セレスティア・アシュレインです」
鈴のように、軽やかな声。惚けた顔で見つめていると、父が小さく咳払いをした。
「私の息子でございます。セオドアが学校を卒業する6年後から、お嬢様専属の執事としてお仕えさせていただく予定です。それまでは、度々見習いとして修行に来る予定ですので、よろしくお願いいたします」
「いつから来るのかしら?」
雪のような白い肌が、父の言葉にそっと首を傾げた。
「明日から伺う予定です」
そう告げると、彼女は大きく口を開けて笑った。
「そうなのね!よろしくね……えっと、セオドアの愛称は何かしら?」
「え、ええっと……テオですが……」
「よろしくね、テオ!わたしのことも、ティアって呼んで!」
彼女は、自分の手を取り、両手で包み込んだ。第一印象と違い、随分活発そうに見える。思わずぽかんと開いた口を、慌てて閉じる。
「お嬢様、なりません。私とお嬢様は、あくまで主従関係ですので……」
小さな手がゆっくりと離れた。驚いたような、不貞腐れたような複雑な表情を浮かべていた。
「まあ、お堅いのね!」
そう言って、くすくすと笑った。くるくると変わる表情から、目が離せない。心の奥に、あたたかな明かりが灯されるのを感じた。
その姿を見つめながら、この先何があっても、この方の幸せを守りたいと強く願った。彼女がまだ、8歳の頃のことだった。




