旅立ちの朝(5月19日)③
正面玄関のロビー前には、すでにアシュレイン一家と使用人たちが並んでいた。セレスティアは、使用人の一人一人に声をかけ、握手を交わす。何人もが、鼻を啜り涙ぐんでいた。
姉君たちは、涙をハンカチで拭いながら、セレスティアの手を握った。奥様は静かに彼女を抱きしめ、旦那様がその上から抱き寄せた。クラウスは、いつも通りの表情を浮かべていたが、瞳は潤み、天井を仰いでいた。
「数日後の式で、また会おう」
旦那様が、絞り出すように呟いた。セレスティアが「はい」と笑って頷く。
彼女が持参する荷物を眺める。輿入れにしては、ほんのわずかな持ち物。側仕えである自分や、他の使用人の帯同も許されなかった。
とはいえ、違う男の妻として過ごすセレスティアを、正気で見ていられる自信もない。彼女が他の男に微笑み、やがて子を抱く姿を目の当たりにして、一番近くで支えることができたのだろうか。なんて、側仕え失格の考えが浮かんでは消える。
扉の向こうから、車輪と、馬の蹄の音が聞こえてきた。門番が、声を上げた。
「モルディエ侯爵家の馬車が、到着されました!」
ロビーの朗らかな空気が、一気に張り詰めた。
誰にも悟られないように、背筋を伸ばしながら奥歯に力を込める。それから、セレスティアの小さな背中を目に焼き付けた。ここから先は、一層感情を乱してはならない。そう、自分を強く律した。
蹄の音が止み、玄関の大きな扉が開く。黒塗りの馬車が目に飛び込んできた。扉には、モルディエ家の紋章が刻まれている。従者がゆっくりと扉を開いた。
車内から降り立つ青年を見て、居並ぶ者たちがため息を漏らした。
透き通るような黒髪に、泉のように澄んだ青い瞳。すらりと伸びた長身を、仕立ての良い礼装が包んでいる。噂通りの美丈夫だった。
「ご無沙汰しております。改めまして、ライナルト・モルディエでございます」
よく通る、柔らかな声。子爵夫妻に深く頭を下げ、穏やかに微笑んだ。
「大切なご令嬢を、お迎えに参りました。一生をかけて、大切にいたします」
旦那様の口元が緩み、肩の力が抜けるのがわかった。奥様は、涙を堪えながら頷いている。姉君たちは、「素敵な方でよかった」と目を合わせている。クラウスの表情は、変わらなかった。
「お嬢様にお似合いの、理想の紳士」と誰かが呟いた。握った拳に、力が入る。
これで、良かった。そう強く思わなければ、立ってもいられなかった。
ライナルトがセレスティアを見つめ、目を細めた。それから、そっと手を差し出した。
「セレスティア嬢……あなたをお迎えできる日を、心待ちにしておりました」
彼女は小さく息を吐き、いつもの笑顔で自分の手を重ねた。
「わたくしも、お待ちしておりました。……ライナルト様」
その指先が、わずかに強張っているのを見逃さなかった。頭が割れそうに痛い。見ていることしかできずにいると、ライナルトの瞳がこちらを向き、口角を上げた。目の奥は笑っておらず、鋭い視線だった。一瞬で頭に血が上りそうになるのを、慌てて押さえつけてから、同じように微笑んだ。
◇
丁寧に荷が積まれていく。少ないので、あっという間の時間だった。
見送りの列の端で、馬車の通り道を確認していた。アシュレイン領とモルディエ領は、一つ別の領を挟んだだけ。とはいえ、今出発しても、着くのは明日の午後になるだろう。一泊、宿に泊まると聞いていた。セレスティアは、彼と同じ部屋で過ごすのだろうか。想像しては虚しくなり、頭を振った。
「セレスティア嬢の、側仕えの方ですね」
不意に声をかけられ、視線を上げる。
いつの間にか、ライナルトが目の前に居て、穏やかに微笑んでいた。
「……はい。セオドアと申します。この屋敷で、お嬢様の身の回りの世話をしておりました」
「ええ、存じておりますよ。何年も一緒に居る、とか。よく、彼女の手紙にも登場していましたから」
セレスティアは、自分をどのように話していたのだろう。
「あなたをモルディエ家に連れて行けないことを、彼女は残念がっておりました。ですがご安心ください。あちらで万事、迎える準備をしておりますので」
柔らかな口調ではあるが、少し冷たい物言いだった。
「ご心配は不要です」
先ほどと同じく、目の奥が笑っていない。値踏みされているような、何かを確かめるような視線が、全身に向けられた。背筋を、冷たいものが走る。
「……承知いたしました。この度は、おめでとうございます」
感情を抑え、深く頭を下げるしかなかった。また、拳に力がこもった。
◇
最後に、セレスティアが自分の前に駆け寄った。
「セオドア、今までありがとう。あなたも、幸せに過ごしてね……」
「もったいないお言葉でございます。……こちらこそ、ありがとうございました。お嬢様と過ごす日々が、何よりの幸せでした」
最後に視線を合わせた。一瞬、時間が止まるような、そんな気配がした。
「わたしもよ……どうか、元気でね」
藤色の瞳に、薄い涙の膜が張っている。あと少しで、雫が溢れそうな合図だ。もう、それを拭うことも叶わない。セレスティアは深く目を閉じてから、いつも通りの笑顔を見せた。何事もなかったかのようにライナルトの手を取り、馬車へ乗り込んだ。
乾いた音を立て、扉が閉まる。
馬の蹄の音と共に車輪が回り始め、音が少しずつ遠ざかっていく。
「セオドア!」と、大きく口を開いて笑う彼女は、もういない。
きっと、セレスティアは幸せになる。
そう信じることが、側仕えとして残された仕事だった。
◇
一日の仕事を終え、自室に戻る。今後は、クラウス付きの従者として働くことになっていた。仕事着を脱ぎ、きっちりとハンガーに掛けていく。首元から、金属音を立て細いチェーンが姿を見せた。そこにぶら下がるシルバーの指輪を、ゆっくりと握る。
セレスティアに贈ったのは、シルバーのピンキーリングだった。それと揃いの指輪を、ひっそりと作っていた。アシュレイン領で採れた星涙石をはめ込んでいる。同じ石を割ったものだ。台座には自分の髪色と同じ、シルバーを選んだ。セレスティアに、覚えていて欲しかった。彼女は、中身を見ただろうか。刻んだ刻印に、気づいただろうか。
愛していた。ずっと側に居たかった。伝えることすらできなかった癖に、彼女の勇気を出した誘いを断った癖に。想うことをやめられない。
どうか、頼むから、幸せで居てくれ。指輪を強く握っては、ただ星に祈った。星信仰のこの国で、それだけが、自信を持ってセレスティアのためにできることだった。




