旅立ちの朝(5月19日)①
カーテンの隙間から、光が漏れ出した。
結局、一睡もできなかった。
寝台に座ったまま、壁に背中を預ける。寝具を照らす光を、ただ眺めていた。手のひらには、爪の跡が薄っすらと残っている。深く息を吐き、スリッパへと足を滑らせる。
冷たい水で顔を洗い、身支度を済ませる。鏡の中の自分は、少しくまが目立つくらいで、いつもと変わらない顔をしていた。まだ夜のままのような紺色の瞳には、少なくともそう映った。銀色の髪を、いつも通り整える。
部屋の窓を開け、空気を入れ替える。朝の空気が流れ込んできた。新緑の匂いに混じって、微かに焦げたような匂いが鼻を掠めた。
この時期に落ち葉を焚く者などいないはずなのに。
首を傾げて、思考を巡らせる。庭師のヴェールが、剪定した枝でも燃やしたのだろう。窓を閉め、仕事に向かわなければ。
今日は、大切な日だ。
自分が仕えるこのアシュレイン子爵家、三女のセレスティアが、嫁ぎ先へ向かう日。
長く息を吸い込んでから、ゆっくり吐き出す。感情を乱してはならない。再度呼吸を整えてから、木製の扉を開いた。
◇
今朝の屋敷は、いつもより慌ただしかった。
使用人たちが廊下を行き交い、一昨日セレスティアと確認した荷物が、玄関に集められていた。いつも通り廊下を進み、白い扉を叩く。
「起きているわ。どうぞ」
少し掠れた声を確認してから、扉を開ける。朝の光で照らされ、彼女自身が輝いているようだった。金色の髪が朝日に透けて、そのまま溶けていきそうだ。喉を鳴らし、寝台へ近づく。
「おはようございます、お嬢様」
「おはよう、セオドア」
目の下にくまが出来ている。化粧で隠れるだろうか。係のメイドに、伝えておかなければ。枕元に、上着が置かれていた。昨夜は無かったはずだ、と鮮明に思い出しては、心が揺らぎそうになる。
「どこか、外に出ましたか」
セレスティアの肩が跳ねたのを、見逃さなかった。
「え、ええ。夜明けに、少し喉が渇いて厨房へ……」
少し、目が泳いでいる。彼女の嘘はわかりやすい。嘘のつけない、素直な人なのだ。
じっと見つめながらため息をつく。
「そういった時は呼んでくださいとあれほど……」
部屋に呼び鈴があるのだから。何回言っても、自分でできるからと呼んでくれなかった。彼女らしいとは思うが、もっと、甘えて欲しかった。そう言いかけては、口を結ぶ。
「……ごめんなさい」
小さくなっているセレスティアに、思わず笑みがこぼれる。いつも通り朝の紅茶を淹れ、今日の予定を告げる。
「朝食は、今日みなさまお揃いだそうです。それから、午前中にはモルディエ家の馬車が到着するとのことです。それまでに、お支度を済ませましょう」
普段と同じく、淡々と。
「ええ、わかってるわ。みんなに、別れの挨拶もしたいわ」
少し元気がないように見える。
いつもは新しいことに興味津々の彼女だが、さすがに生家との別れは名残惜しいのだろう。
「……はい。皆もそう言っております。屋敷の者は、皆お嬢様が大好きですから」
このアシュレイン家は、貴族でありながらも、気さくで優しい方ばかりだ。領民に寄り添い、いつも領民の生活が少しでも良くなるように必死に動いているのを、屋敷で働く者は皆尊敬していた。誇るべき主人だ。
「それは、セオドアも……?」
子どものような口ぶりに、一瞬手が止まる。
「もちろんでございます。……出会った日からずっと」
それが、自分に言える精一杯の言葉だった。セレスティアは窓の外に視線を逸らしてから一度目を閉じ、再び真っ直ぐこちらを向いた。
「ありがとう、それだけで……」
続く言葉は、紡がれなかった。
「わたしも、この屋敷のみんなが、領地の全てが大好きよ」
満面の笑顔だったが、どこか悲しげに見えた。彼女へ伸ばした手を、強く握る。
身支度は担当のメイドに任せ、朝食を確認するために部屋を後にした。
◇
「セオドア、すごいくまだな」
「……クラウス様」
朝食のメニュー確認のために向かった食堂で、アシュレイン家の長男であるクラウス・アシュレインが顔を覗き込んでは眉を顰めた。
「相変わらず堅苦しいな。昔みたいにクラウでいいのに」
「次期当主様に、そんな呼び方出来ませんよ」
淡々とした態度に、クラウスは大きく口を開けて笑った。
「はあ、変わらなくて安心するよ」
「それは、何よりです」
メニューに合う飲み物を書き出し、ペンを懐へ戻す。
「その、ごめんな……ティアの結婚、止められなくて」
彼女をその愛称で呼ぶのは、家族だけだ。
「……なぜ、そんなことを」
「だってお前たち、ずっと……いや、ごめん何でもない」
いつも快活なクラウスが、目を伏せて小さく笑った。心が波立つ気配を感じて、ゆっくり目を閉じた。
「私は、お嬢様の幸せだけを願っておりますので」
「そ、うだよな……でも、俺はさ本当は……」
「セオドアさーん、飲み物どうしますか?」
料理長の大きな声が、食堂に響いた。その声に返事をしつつ、クラウスに頭を下げて厨房に向かう。
「セオドア、また話そう」
背後から届いた声に、そっと頷いた。




