イヌタデ
夜も更けた頃。
宮の一角にある小さな一室では、小皿の油を吸い上げる灯芯が、かすかな爆ぜる音を立てていた。
揺らめく橙色の火影が、土壁に二つの輪郭を濃く落としている。
板敷きの上に膝をつくチガヤの姿勢には、寸分の乱れもなかった。
整えられた呼吸のまま、向かいに座る男へ淡々と報告を続ける。
「――兵たちの間に目立った動きはありません。兵舎の配置や夜回りの交代巡路も定刻通りです。
南側の穀物庫に出入りしている例の商人については、引き続き背後を探ります」
「ふむ」
向かいに座るイヌタデは、立派な口髭を指先でくるりと撫でた。
「ご苦労、ご苦労」
いつものように、どこか気の抜けた声。
まるで昼寝から起きたばかりの老人のような口調だった。
「同室のモモジ君はどうです?」
「うるさいです」
「アオバ君は?」
「普通です」
「ヒシン君は?」
「浮かれてます」
「ははぁ」
手短で容赦のない評価に、イヌタデは面白そうに相槌を打つ。
チガヤはわずかに眉根を寄せ、影を帯びた瞳で男を見つめた。
「……何か問題でも」
「いやぁ」
イヌタデは困ったように笑った。
「最近、前より表情が明るくなりましたねぇ」
「……別に」
「同僚との仲も良好。結構なことです」
「任務に支障はありません」
「ええ。それは見れば分かりますとも」
にこにこと頷く。
だが、その目だけは違った。
投馬国中に広がる影たちを束ねる男の目――
人の癖も、声の調子も、呼吸の乱れも。
ほんのわずかな間さえ見逃さない、静かな観察者の目だった。
「昔はねぇ」
ぽつりとイヌタデが言った。
「君は必要なことしか喋らなかった」
「今もです」
「そうかな?」
髭を撫でながら、くすりと笑う。
「前に話してくれたでしょう?」
「……?」
「同室の二人が些細なことで喧嘩していたとか」
「見張り番の兵が居眠りして、顔に墨を塗られていたとか」
「酒を飲みすぎた古参の兵が、若い連中に担がれて兵舎へ運ばれていたとか」
「……そんなことまで、よく覚えてますね」
「そりゃあ覚えていますとも」
イヌタデは目を細めた。
「前の君なら、『異常なし』の一言で終わっていましたからねぇ」
チガヤは黙った。
「良い変化です」
イヌタデは髭を撫でながら、満足げに微笑んだ。
「人の日常の中で暮らすのも、悪くないでしょう?」
「別に」
そっけない返答。
しかし、イヌタデはその短い言葉の裏にある感情を読み取り、小さく笑った。
「それで――最近、女の子とよく一緒にいるそうですね」
ぴたりと、チガヤの動きが止まる。
「顔に出てますよ?」
「……出てません」
「影としては減点ですねぇ」
「……」
「サクさん、と言いましたか」
「……誰から聞いたんですか」
「さぁ?」
イヌタデは飄々と首を傾げる。
「影はあちこちにいますからねぇ」
――愚問だった。
チガヤの眉間に皺が寄る。
イヌタデはふっと笑みを和らげた。
「チガヤ君」
「……」
「好きな娘ができるのは、悪いことじゃありませんよ」
その言葉に。
チガヤの動きが止まった。
「違います」
「……ええ、ええ。そういうことにしておきましょう」
髭を撫でながら、イヌタデは穏やかに笑う。
その顔は、部下を見る顔ではなかった。
幼い頃から知る、一人の少年の成長を見守る――そんな父親のような顔だった。
(……敵わない)
チガヤは胸の奥で小さく溜め息をついた。
幼少期から叩き込まれてきた術も。
心の動きも。
この男には昔から、何ひとつ隠し通せた試しがない。
そしてイヌタデは、そんな若き影の困り顔を見ながら、
(いやぁ、若いってのは良いもんですなぁ)
と、密かに目を細めるのだった。




