黒い亡霊
「――ぐ……う、おああッ!」
夜気を切り裂くように、男が喉の奥から濁った叫び声を絞り出した。
麻痺毒で自由を奪われつつある四肢をもがき狂わせ、丸太のような太い腕をがむしゃらに振り回して暴れ立てる。
いつもの夜の巡回中、難なく侵入者を組み伏せたはずのチガヤは、思わぬ誤算に小さく舌打ちした。
今回の獲物はやたら大柄な男だった。
薬売りのなりをして投馬国に入り込んでいたが、その濁った双眸に宿るぎらつきは隠せていなかった。
最初から目を光らせていたのは正解だったが、厄介なことに、仕込んだ毒が効ききらない体質だったらしい。
このまま騒がれれば面倒なことになる。
チガヤは躊躇なく踏み込み、逆手に握った短刀の柄頭を、男のこめかみへと正確無比に叩き込んだ。
ゴッ――
頭蓋を揺らす鈍い音が夜気に沈む。
白目を剥いた巨体が崩れ落ち、湿った土埃を立てた。
路地にようやく張り詰めた静寂が戻る――
が、遅かった。
「……あれ?」
板壁を一枚隔てた辻の先から、気の抜けた呑気な声が降ってきた。
モモジだ。
「今、あっちの路地から声しなかったか?」
カサリ、と砂利を擦る草履の音。
チガヤの思考が冷徹に巡る。
咄嗟に足元に沈む巨漢の襟首を掴み、軒下に積まれた薪の山と板壁のわずかな隙間へと力任せに押し込んだ。
息を整える間もなく、続いて低く乾いたヒシンの声が夜気に混じった。
「なんか、男のうめき声みたいなのが聞こえたな……」
板塀の向こうの足音は、去るどころか、確実にこちらへ近づいてきている。
二つの影が角の土壁にぼんやりと伸びる中、ヒシンが喉の奥でふっと笑う気配が届いた。
「――なあモモジ。最近、この投馬国で噂になってる『黒い亡霊』の話、知ってるか?」
「は? な、なんだよ急に……」
「夜更けの辻に迷い込むと、地の底から這い出るような唸りが聞こえるんだと。振り向いた瞬間、黒い影に飛びかかられて、魂を丸ごと吸い取られるらしいぜ」
尾ひれのついた怪談を面白がるように低く這わせるヒシンに、モモジの手元の炎がびくりと激しく揺れた。
「や、やめろって! も、もう行こうぜヒシン!」
情けない声で袖を引くモモジに、ヒシンはからかうように口角を吊り上げる。
「なんだよ、びびってんのか?」
「び、びびってねぇーし! ただ、早く回らねぇと交代の時間に遅れるだろ!」
「何にせよ、異変を見逃すわけにはいかねぇよ。夜回りの務めだからな」
「なんでこういう時に限って無駄に真面目なんだよ! お前はッ!」
半泣きのモモジは、ヒシンの広い背中にぴったりと張り付き、盾にするようにびくびくと歩を進めてくる。
距離はもう十歩もない。
引きずられるような足音とともに、二人の影が角を曲がってくる。
薪の隙間に男を押し込み終えたチガヤには、もはや身を隠す隙間など残されていなかった。
男の回収は後回しだ。
足音が角を曲がろうとしたその刹那――
チガヤは地面を蹴った。
音もなく跳び上がり、そのまま藁葺き屋根へと身を躍らせ、低い体勢のまま走り抜けた。
「ひ、ぎゃああああっ!! 出たぁぁぁあああッ!!」
静まり返った夜の帳を切り裂く、情けなく裏返った絶叫を背に受けながら――
チガヤは苦々しい思いで夜の闇へと溶けていった。
◇
――翌朝。
詰所の板間には、炊きたての雑穀飯と干物の焼ける香ばしい匂いが漂っていた。
「――だからマジなんだって! 屋根の上を、ヒュンって黒い影が跳んだんだよ!」
昨夜の腰抜けぶりを棚に上げ、モモジは椀を片手に身を乗り出し、身振り手振りを交えて熱弁を振っていた。
対するチガヤは、無表情のまま漬物を噛み砕いている。
視線は使い古されて角の丸くなった膳の木目へと落とされたまま、微動だにしない。
膳の向かい側で、干物の焦げた皮を箸の先で突いていたアオバが、心底どうでもよさそうに息を吐く。
「どうせ鼬鼠でも見間違えたんだろ。夜中なんて、影が伸びて何でも化け物に見えるもんだ」
「違うって! 鼬鼠があんな跳び方するかよ!」
取り付く島もないアオバの返答に、モモジはさらに声を荒らげた。
「もっとこう、人型っていうか……いや、でも人間にしてはやたら小さかったんだよな。ちんまりしてて、小柄で、豆粒みたいにちっこいのがヒュンッて!」
チガヤの箸が、ぴたりと止まった。
――小さい、小さいと。
モモジはわざわざ両手で虚空に小さな輪を作り、これ見よがしに縮こまった大きさを表現してみせてくる。
(……わかっててわざと言ってるんじゃないだろうな、こいつ)
普段から、己の背の低さを散々いじられているチガヤにとって、こう何度も強調されると、嫌でも自分への当てこすりのように聞こえてくる。
「そう、とにかく小さかった! あんな縮んだ人間がいるわけねぇから、絶対にあれは子鬼か、呪われた童の怨霊に決まってる!」
飯を噛み締めていたチガヤのこめかみに、ピシリと青筋が浮かんだ。
ゆっくりと、音もなく箸を膳の上に置く。
持ち上げられた顔は、普段以上に一切の感情が削ぎ落とされていた。
氷刃のように研ぎ澄まされた眼差しが、モモジの眉間を真っ直ぐに射抜く。
「……モモジ」
冷気を孕んだ静かな声音が、狭い詰所の空気を一瞬で凍りつかせる。
「うるさい」
言葉の短さに反比例するような、底知れぬ凄みと殺気。
モモジは喉の奥で「ひっ」と小さな悲鳴を詰まらせ、掲げていた両手を情けなく胸元へと引っ込めた。
チガヤが再び視線を落とし、乱暴に箸を動かし始めると、モモジは肩をすくめ、隣のアオバへと冷や汗混じりに耳打ちした。
「……なんか今朝はやたら機嫌悪くね? あいつ」
「お前が騒ぐからだろ。余計なこと言ってねぇでさっさと食え」
アオバの呆れ声が重なる中、チガヤは煮え切らない思いを抱えたまま、冷めかかった欠け茶碗の汁を、一気に喉の奥へと流し込んだ。




