追われるアオバ
昼下がり。
汗を拭いながら練武場を後にしようとしたアオバは――
「アオバさーん!」
と弾んだ声で呼び止められた。
振り向くと、二、三人の新人侍女たちが頬を染めてこちらを見つめている。
わけが分からず、ただ軽く、ぺこりと頭を下げただけだったのだが。
直後――
「きゃあ!」
と黄色い悲鳴が上がり、通りかかったモモジが「ぐぬぬ……」と血涙を流さんばかりに顔を歪めていた。
ここまでは、まだ微笑ましい日常の一幕だったのだ。
問題は、その中に一人、異様な熱量を秘めた娘が混ざっていたことだった。
◇
きっかけは、ほんの気まぐれだった。
大きな麻袋を抱えてよろめいていた侍女を見かけ、倒れそうになった体を思わず横から腕を伸ばして支えてやった。
「大丈夫か?」
声をかけ、袋を代わりに抱えてやったあの日から――
彼女の視線は、どこへ行ってもアオバを追いかけてくるようになった。
物陰からじっと見つめる視線。
すれ違いざまに不自然なほど近くを通る気配。
そして今日、ついに事件は起きた。
彼女に呼び出されたのは、日差しも届かない人気のない穀物庫の裏手だった。
湿った土と古い藁の匂いが充満する日陰で待っていた彼女は、狂おしいほどの熱を孕んだ瞳でアオバを見つめていた。
言葉を交わす隙すら与えず、いきなり胸元へ飛び込んでくる。
力任せに抱きつかれ、冷たい指先が首筋に回る。
至近距離まで迫る唇。
不意を突かれたアオバは、背中に冷や汗が吹き出すのを感じた。
◇
「――で、どうしたんだよそれで!?」
モモジの叫び声が、夜の宿舎の狭い室内に響いた。
正座のまま前のめりになり、アオバの肩を揺さぶらんばかりの勢いである。
その目は嫉妬と羨望、そして野次馬根性でぎらぎらと血走っていた。
当のアオバは、寝床の上に胡座をかいたまま、少し辟易とした顔で頭を掻いた。
「や、なんか普通に怖かったし……丁重にお断りした」
逞しく育った男の体でも、その一心不乱な執着の重さには底知れぬ恐怖を覚えたのだ。
「なんだよそれーッ! もったいねぇぇぇ!」
モモジが寝床に突っ伏して身をよじらせる中、部屋の空気は四者四様に揺れていた。
ヒシンが「ヒュウ!」と軽快に口笛を吹き、部屋の端で黙々と草履を編んでいたチガヤも、わずかに眉を上げてアオバに視線を向けた。
「お前なぁ……! その状況で怖気づく奴があるか! 『怖かった』だと!? どんな贅沢な悩みだよ、ちくしょう!」
「どこがだよ。いきなり暗がりで捕まえられて顔を近づけられた身にもなってみろよ。恐怖しかねぇって」
「……代われ、その役目を俺に代われ……!」
悔しさに身を悶えさせるモモジを、アオバは心底困り果てた目で見つめる。
日々の鍛錬で、より引き締まった体躯と、どこか朴訥とした雰囲気が相まって、今の彼は期せずして宮中の女心を揺さぶる存在になりつつあった。
ヒシンが楽しそうに忍び笑いを漏らす。
「まあまあ、モモジ。アオバの愚直さは前からだろ。それにしても……『怖かった』で押し通して逃げてきたのか? 相手の娘、泣いてたんじゃないか?」
「……いや。すごい真顔で『諦めませんから』って言われた……」
アオバがげんなりと肩を落とすと、それまで黙っていたチガヤが草履を編む手を止め、ぽつりと口を開いた。
「執念深い」
「だろ? マジでちょっと、勢いが怖いんだよ……」
「――いるよ」
「え?」
アオバが動きを止める。
チガヤは窓の外、月明かりが差し込む宿舎の庭先を顎でしゃくった。
「さっきから、あの木の陰にいる」
その一言に、部屋の中の空気が凍りついた。
アオバとモモジが恐る恐る窓枠の隙間から外を覗き込むと――なるほど、満月の光を浴びる大きな木の影から、じっとこちらを見つめる人影がひとつ。
「うわあああッ!? 本当にいるじゃねえか!!」
モモジが飛び上がって窓の葦簀をバシャッと閉め、アオバは「ヒッ……!」と短い悲鳴を上げた。
「やべえ……執着系女子……アオバ……完全に目をつけられてるぞ」
背筋にゾクリと寒いものが走る。
だが、アオバは息を深く吸い、決意を固めるように拳を握りしめた。
「……とにかく、俺は誰かとどうこうなる気はないから。変な期待を持たせるのも悪い」
どれほど他の娘に歓声をあげられようと、強引に迫られようと、自分の胸の奥底にいるのはたったひとりだけだ。
その想いに嘘をついて誰かの手を取ることなど、毛頭できなかった。
「だから、ちゃんと断ってくる」
意を決した顔で戸口から出て、彼女のもとへと向かうアオバ。
「……真面目だねえ、相変わらず」
後ろからヒシンの呆れたような声が追いかける。
しかし。
「大丈夫か、アイツ……逆上して刺されたりとかしねぇだろうな?」
「……」
モモジの漏らした呟きに、沈黙が落ちた。
三人は無言のまま静かに窓際へ詰め寄り、葦簀の隙間から息を殺して外の様子を探った。
夜気を含んだ冷たい風が、夜着の袖を揺らす。
暗がりに潜む人影――あの大木の影へと近づくにつれ、アオバの胸の奥で鼓動が早鐘のように高鳴っていた。
木の幹の向こうから、ぬっと姿を現したのは例の侍女だった。
昼間の穀物庫裏での狂乱が嘘のように、彼女は行儀よく両手を前で揃え、佇んでいる。
「アオバ様……」
鈴を転がすような涼やかな声。
しかし、満月の青白い光を浴びたその瞳は、深海のように暗く、底知れぬ熱量を秘めてアオバの全身を射抜いていた。
アオバはゴクリと唾を呑み込み、半歩引いたまま姿勢を正した。
「……こんな夜更けに、女子が男の宿舎の周りをうろつくもんじゃない。それに、昼間も言ったはずだ。気持ちはありがたいが、きみの想いには応えられない」
毅然と言い放とうとした言葉は、どこか自分でも引きつっているのが分かった。
しかし、彼女は傷ついた素振りすら見せない。
ただ、歪んだ微笑みを唇に浮かべ、すうっと音もなく距離を詰めてくる。
「どうしてですか? あの日、抱き止めてくださった時の腕の温もりを、私は忘れていません。私を助けてくれた……私を見てくれた。それなのに、なぜ拒むのですか?」
「あ、あれは……倒れそうだったから助けただけだ。誰が相手でも同じことをした」
「いいえ、私だったから助けてくださったのでしょう? 運命だったのです」
まったく噛み合わない会話。
彼女の頭の中では、都合のいい物語がすでに美しい真実として完結してしまっている。
これ以上刺激すれば、夜の静寂を破って何を言い出すか分からない。
底知れぬ圧迫感に気圧され、アオバは――
「もう夜も遅い、戻ってくれ」
と、半ば逃げるように背を向け、早足で宿舎へと引き返した。
窓から息を殺して外を盗み見ていたモモジが、戻ってきたアオバを引きつった顔で出迎える。
「お、おかえり、アオバ。無事か……?」
アオバは返事をする気力すら湧かず、吸い寄せられるように自分の寝床へ倒れ込んだ。
「ど、どうした!? やっぱり刺されたのか!?」
後ろで慌てふためき、身を乗り出して背中や腰のあたりを改めようとするモモジをよそに、アオバは硬い敷布へ深く顔を埋めたまま、がっくりと肩を落とす。
「……だめだ。全然話が通じねえ……」
敷布越しに漏れたくぐもった低音に、モモジは固唾をのんだ。
「マジかよ……引き下がる気、皆無じゃねえか……」
先ほどまで「羨ましい」「役目を代われ」と騒ぎ立てていた羨望はすっかり霧散し、モモジの顔は青ざめていた。
自分に向けられたものではないと分かっていても、その底知れぬ執着の気配に肌が粟立つ。
ヒシンは、眉をひょいと上げて軽く笑った。
「そりゃそうさ。恋に狂った女子の耳に、男の正論なんて届くわけがないだろ。お前がいくら大真面目に断ろうとしたって、向こうの都合のいい頭の中じゃ『恥ずかしがって素直になれないのね』くらいに変換されてるさ」
「……笑いごとじゃねえよ」
アオバは敷布から顔だけを半分覗かせ、げんなりと恨めしそうな目をヒシンに向けた。
去っていったアサへの断ち切れぬ想いを抱え、ただ無心に己を鍛えていただけなのに、なぜこんな事態に巻き込まれているのか。
徒労感と恐怖が混ざった吐息が、夜の静寂に白く溶けていく。
その横で、チガヤは一言も発することなく、静かに外へ視線を向けた。
淡く立ち上る夜霧の向こう。
青白い月光が淡く照らし出す庭の隅。
大木の黒々とした影の中に、先ほどと変わらぬ姿勢で佇む影があった。
行儀よく揃えられた両手とは裏腹に、その視線は寸分もブレることなく、こちらの部屋の窓へとしがみつくように向けられている。
瞬きすら忘れたかのように固まるその姿は、夜の静寂の中にぽっかりと開いた異質な歪みのようだった。
(……面倒なことになりそうだ)
狂おしい熱量を秘めた女の佇まいに、チガヤは胸の奥で予感めいた胸騒ぎを覚え、深く目を細める。
そっと視線を室内に戻す。
倒れ伏したまま頭を抱えるアオバと、戸惑い震えるモモジ、面白がりつつもどこか警戒を強めているヒシン。
静まり返った宿舎の夜は、まだ明ける気配を見せていなかった。




