見ている
侍女の行いは、もはや「密かな恋情」という微笑ましい域を、とうに踏み越えていた。
膳の端にさりげなく添えられたアオバの好物。
洗濯した衣類に挟まれた小さな野の花。
前日の鍛錬で掌を擦り剥けば、翌朝には細かくすり潰された薬草が、部屋の敷居の際に置かれている。
「……またか」
アオバはげんなりとした溜息を吐き、薬草を握りつぶすようにして脇へ退けた。
胸に広がるのは感謝などではなく、肌にまとわりつくような不快なざらつきだった。
アオバは意識的に己の行動を変え始めた。
食事をとる時間をずらし、座る場所を変える。
鍛錬の帰り道は、わざと遠回りの日陰を選んだ。
だが、ふと視線を上げれば――そこに「いる」。
木の幹の陰。
渡り廊下の吹き抜けの端。
水場の向こうの暗い藪。
彼女は常に、つかず離れずの距離に潜んでいた。
恐ろしいのは、最近になって一切声をかけてこなくなったことだ。
ただ、ジッと見つめている。
澄んだ、しかし光の宿らない暗い瞳で、アオバの一挙一動を網膜に焼き付けるようにして追い続けているのだ。
やがてアオバは、背後に刺さる見えない視線に四六時中脅かされるようになった。
歩きながら、幾度となく背後を振り返る。
鍛錬の最中、風の音ひとつで肩が跳ね上がり、集中は途切れ、素振りの筋が狂う。
夜、静寂の中で小さく木々が軋む音を聞くだけで跳ね起きるようになった。
床に入り、目を閉じても、暗闇のどこかから視線が刺さっている感覚が消えない。
「……お前、最近ちゃんと寝てるか?」
朝餉の時間、モモジがアオバの顔を心配そうに覗き込んだ。
アオバの手は箸を持ったまま止まり、目の下には濃い紫色の隈が落ちている。
「寝てるよ」
かすれた声で答えながらも、アオバの視線は無意識に宿舎の戸口や窓枠を彷徨っていた。
不意に、アオバはぽつりと呟いた。
「……俺、最近あの娘のことばっかり考えてる。好きでもねえのに」
気味が悪いから頭から離れない。
恐怖が脳を支配している。
アオバの心は、擦り切れる寸前だった。
◇
決定打になったのは、アオバが身につけていた管玉の紐飾りが無くなったことだった。
特に高価なものでもない素朴な品だが、亡き母親の唯一の形見であり、アオバにとって何より大切なものだった。
周囲の同僚に問いかけても誰も知らない。
アオバの精神は完全に打ち砕かれた。
モモジも冗談を言うのをやめた。
重苦しい空気の中、部屋の片隅に佇むチガヤは、細めた瞳の奥で冷やかな光を宿していた。
夕暮れの中――
侍女は大きな楡の木の下で、掠め取った管玉の紐飾りを愛おしげにかかげていた。
古びた紐の感触を指先でなぞり、アオバの体温の残り香を探すように頬に寄せる。
「――それ、返してくれる?」
音もなく、背後にチガヤが立っていた。
びくりと、一瞬侍女の肩が跳ね上がった。
だがすぐに取り繕うように気を取り直し、湿った瞳でチガヤを見返した。
「……何のこと?」
「アオバの大事なものなんだ」
風が吹き抜け、枯れ葉が舞う。
長い沈黙が流れた。
やがて、侍女はそっと紐飾りを後ろ手に隠し、平然とした顔で薄く笑った。
「これは私のものよ。こんな素朴な品、どこにでもあるでしょう? アオバ様のものだという証拠でもあるの?」
盗み働きをしらばっくれる顔。
チガヤは静かに――まるで爪を研ぐ獣のような眼差しで彼女を見つめた。
力づくで腕を捻り上げ、奪い返すことは造作もない。
だが、それでは足りない。
アオバの心をここまで苛んだ歪んだ執着を挫くには。
この女の芯にある異常な自我を叩き潰し、二度と立ち上がれないようにしてやりたかった。
チガヤは言葉を返さず、静かに身を翻して去った。
その背中に、侍女は勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。
◇
その夜。
宿舎の灯りがすべて消え、草木も眠る深い夜。
チガヤの姿が、気配もなく消えた。
――ここからは、追う者の領域である。
侍女はいつものように、闇に紛れてアオバの宿舎の部屋を遠くから見つめていた。
――コツン。
背後で小さく乾いた足音がした。
侍女はハッとして振り返る。
誰もいない。
風が草木を揺らす音だけだ。
気のせいかと思い、再び歩き出す。
――コツン。
今度は前だ。
薄暗い廊下の先、月光が届かない闇の溜まり場に、黒い人影が立っていた。
人の形をしているが、顔があるべき場所にはただ濃密な暗黒しかない。
侍女が息を飲み、パチリと瞬きをした瞬間、その影は消えていた。
「……?」
その夜を境に、世界は変貌した。
アオバを追おうと木陰に潜めば、はるか遠くの屋根の上に「顔のない黒い影」が立っている。
宿舎の周りを徘徊すれば、戸の向こうに人影が揺れる。
だが近づくと、そこには誰もいない。
決して直接姿を見せず、ただ「見られている」という感覚だけを確実に植え付けていく。
追う立場だった侍女は、いつの間にか自分が「何か」に追われている恐怖に狂い始めていた。
逃げるように自室へ戻り、木戸を閉める。
息を整えていると、戸のすぐ外で――足音が止まった。
「……」
呼吸すら忘れて固まる。
意を決して戸を猛然と開けたが、夜の静寂が広がるだけだった。
そして、月が最も高く昇った夜。
冷たい月光が立ち込め、庭の藁が風に揺れていた。
壁に揺れる自分の影の隣に、もうひとつ、黒い影が落ちている。
侍女が悲鳴を噛み殺して振り返るが、誰もいない。
再び壁に視線を戻すと、余分な影は消えていた。
安堵で膝をつきかけたその時――
背後の暗闇から、低い声が鼓膜を打った。
「……見ている」
侍女の全身の血が凍りついた。
「……誰……?」
声は答えない。
重苦しい沈黙のあと、地底から響くような冷徹な言葉が落ちた。
「お前が、あの男を見るように――俺も、お前を見ている」
姿はどこにもない。
声だけが暗闇に漂っている。
侍女はガタガタと震え、声もなくうずくまった。
◇
翌朝。
アオバは疲弊した眼光で、習慣となった周囲の警戒を行った。
だが、いない。
昼になっても。
夕暮れになっても。
木の陰にも、廊下の端にも――
彼女の姿はなかった。
三日。
一週間が過ぎても、侍女が姿を見せることは二度となかった。
宮の噂では、彼女は急な病と称して実家へ引き籠もり、そのまま暇を出されたのだという。
一部の者の間では「黒い亡霊に魂を吸い取られた」と囁かれていた。
ある日、アオバが自室に戻ると、畳まれた麻衣の上に、失くしたはずの「管玉の紐飾り」が静かに置かれていた。
誰がどうやって戻したのかは分からない。
だが、それを見た瞬間――アオバの胸を占めていた不気味なざらつきは綺麗に消え去り、数か月ぶりの深い安らぎが戻ってきた。
◇
月明かりが夜の屋根を照らしている。
黒い装束に身を包んだ影が、重力を感じさせない足取りで屋根から屋根へと跳躍する。
音ひとつ立てることなく、風のように宮の深い暗がりへと溶けていく。
アオバの安眠を取り戻したその「亡霊」の素顔を、誰も知らない。
ただ月だけが、冷たくチガヤの背中を照らしていた。




