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陽だまりのあと




 アサが耶馬台国《やまたいこく》へ向《む》けて発《た》ってから、木立《こだち》を抜《ぬ》ける風《かぜ》の音《おと》ばかりが、やけに耳《みみ》につくようになった。



 投馬国《とうまこく》の宮中《きゅうちゅう》の空気《くうき》は、水盤《すいばん》に垂《た》らした墨《すみ》が、ゆっくりと沈《しず》むように――


 目《め》に見《み》えぬほどの微細《びさい》さで。


 しかし、確実《かくじつ》に変《か》わっていた。



 案《あん》の定《じょう》、空《あ》いた席《せき》を埋《う》めるように、次《つぎ》の后《きさき》候補《こうほ》を巡《めぐ》る声《こえ》があちこちで立《た》ち始《はじ》める。


 その筆頭《ひっとう》として持《も》ち上《あ》がったのが、宇良《うら》の名《な》だった。



 もっとも――今《いま》に始《はじ》まったことではない。


 これまでも、折《おり》に触《ふ》れては取《と》り沙汰《ざた》されてきた話《はなし》だった。



 死《し》んだ兄《あに》の正妃《せいひ》を、弟《おとうと》が引《ひ》き取《と》る。


 取《と》り立《た》てて珍《めずら》しい話《はなし》でもない。


 むしろ、血脈《けつみゃく》を守《まも》り、権勢《けんせい》の均衡《きんこう》を保《たも》つためには理《り》にかなっている。


 だからこそ――


 周囲《しゅうい》にとっては、今回《こんかい》もまた、至《いた》って自然《しぜん》な候補《こうほ》の一人《ひとり》だった。



 しかし――思考《しこう》と同時《どうじ》に、ミナギの眉間《みけん》に深《ふか》い皺《しわ》が刻《きざ》まれた。

 


(……冗談《じょうだん》ではない)


 

 昔《むかし》から、反《そ》りが合《あ》わない相手《あいて》だった。


 表向《おもてむ》きはどこまでもたおやかで、その端麗《たんれい》な貌《かお》は磨《みが》き抜《ぬ》かれた白磁《はくじ》のように一点《いってん》の濁《にご》りもない。

 

 声《こえ》も、水《みず》が流《なが》れるように淀《よど》みなく美《うつく》しい。



 けれど、その奥底《おくそこ》に澱《よど》むものを、ミナギは知《し》っている。


 楚々(そそ)とした笑《え》みの奥底《おくそこ》には、常《つね》に凍《い》てつくような底冷《そこび》えが張《は》り付《つ》いている。


 相手《あいて》のわずかな揺《ゆ》らぎを逃《のが》さぬ、値踏《ねぶ》みの眼差《まなざ》し。


 言葉《ことば》の節々(ふしぶし)に、抜《ぬ》き身《み》の刃《やいば》を潜《ひそ》ませる冷徹《れいてつ》な間合《まあ》い。


 思《おも》い出《だ》すだけで、胸《むね》が圧迫《あっぱく》されるような息苦《いきぐる》しさを感《かん》じる。



 ――だが。



 ここ最近《さいきん》の宇良《うら》の変貌《へんぼう》は、ミナギの不快感《ふかいかん》に奇妙《きみょう》な引《ひ》っかかりを残《のこ》していた。


 角《かど》が取《と》れ、妙《みょう》に柔《やわ》らかい。


 人《ひと》と対《たい》する時《とき》の間合《まあ》いも。


 言葉《ことば》の運《はこ》びも。


 どこか以前《いぜん》より緩《ゆる》やかで、隙《すき》があるようにすら見《み》える。

 


 

 ――あれは、アサが耶馬台国《やまたいこく》へ旅立《たびだ》つ直前《ちょくぜん》のことだ。


 渡《わた》り廊下《ろうか》の陰《かげ》で、ミナギはふと足《あし》を止《と》めた。


 庭《にわ》の木漏《こも》れ日《び》を浴《あ》びながら、宇良《うら》が笑《わら》っていた。


 その視線《しせん》の先《さき》にいたのが、アサだった。


 

 立《た》ち話《ばなし》をするアサは、警戒《けいかい》の色《いろ》をまったく見《み》せていない。


 不器用《ぶきよう》に目《め》を瞬《またた》かせ、身振《みぶ》り手振《てぶ》りを交《まじ》えながら、少《すこ》し困《こま》ったような、朗《ほが》らかな笑《え》みを宇良《うら》に向《む》けている。



 その光景《こうけい》に、ミナギはわずかに目《め》を細《ほそ》めた。


 最初《さいしょ》は、疑《うたが》った。


 アサに何《なに》かする気《き》ではないかと。


 何《なに》を吹《ふ》き込《こ》み、どう籠絡《ろうらく》しようとしているのかと。


 あの抜《ぬ》け目《め》のない女《おんな》が、無意味《むいみ》に距離《きょり》を縮《ちぢ》めるはずがない。


 必《かなら》ず背後《はいご》に刃《やいば》を隠《かく》しているはずだ――


 そう睨《にら》んで、さりげなく目《め》を配《くば》っていた。



 だが、見張《みは》るミナギの目《め》に飛《と》び込《こ》んできた宇良《うら》の横顔《よこがお》には、取《と》り繕《つくろ》うことのできない、楽《たの》しげな光《ひかり》が滲《にじ》んでいた。


 作《つく》り物《もの》の、貼《は》り付《つ》いた微笑《びしょう》ではない。


 アサの飾《かざ》らない言葉《ことば》に目《め》を丸《まる》くし、口元《くちもと》を袖《そで》で隠《かく》して小《ちい》さく吹《ふ》き出《だ》す仕草《しぐさ》。


 品定《しなさだ》めする冷《ひ》え切《き》った眼光《がんこう》は跡形《あとかた》もなく消《き》え去《さ》り、目《め》の前《まえ》でくるくると表情《ひょうじょう》を変《か》える少女《しょうじょ》の姿《すがた》を、まるで幼子《おさなご》を慈《いつく》しむような眼差《まなざ》しで追《お》っていた。


 

 あれは、偽《いつわ》りではない。


 少《すく》なくとも――今《いま》この瞬間《しゅんかん》に限《かぎ》っては。

 




 (……アサ、か)



 ミナギは、ふっと息《いき》を吐《は》いた。


 あの気難《きむずか》しい女《おんな》の警戒《けいかい》を解《と》き、あの棘《とげ》だらけの間合《まあ》いを和《やわ》らげ、変《か》えたのは――


 アサの魂《たましい》が持《も》つ、純然《じゅんぜん》たる真《ま》っ直《す》ぐさだったのだ。


 計算《けいさん》ずくの策謀《さくぼう》よりも、底抜《そこぬ》けの愚直《ぐちょく》さこそが、最大《さいだい》の毒消《どくけ》しだったということか。


 並《なみ》の者《もの》にできることではない。


 知《し》らず、口元《くちもと》がわずかに緩《ゆる》む。



 (……大《たい》したものだ)



 遠《とお》い異国《いこく》の空《そら》の下《した》を往《ゆ》く、あの愛《いと》おしい娘《むすめ》の――


 太陽《たいよう》のように屈託《くったく》のない笑顔《えがお》が、鮮《あざ》やかに脳裏《のうり》をよぎる。


 ミナギの胸《むね》の奥《おく》に小《ちい》さく灯《とも》ったのは、かつてない快《こころよ》い熱《ねつ》だった。

 

 そして、他《ほか》ならぬ。


 己《おのれ》が見出《みいだ》し、ただ一人《ひとり》心《こころ》を預《あず》けた者《もの》が示《しめ》した鮮《あざ》やかな力《ちから》に対《たい》する――


 誇《ほこ》らしさに満《み》ちた高揚《こうよう》だった。




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