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闇に立つ者



 ミナギの后(きさき)候補《こうほ》に宇良(うら)の名(な)が挙(あ)がったという報(しら)せは、重臣(じゅうしん)ヨモガイの内(うち)に淀(よど)んでいた昏(くら)い執着(しゅうちゃく)を激(はげ)しく掻(か)き立(た)てていた。



 ――あれは、自分(じぶん)のものだ。



 心(こころ)の中(なか)で、はっきりと言(い)い切(き)る。


 宇良(うら)の体温(たいおん)も、息(いき)の乱(みだ)れも、すべて知(し)っている。


 あの静(しず)かな女(おんな)が、どこで力(ちから)を抜(ぬ)き、どこで抗(あらが)うのか。


 どこまで踏(ふ)み込(こ)めば、拒(こば)まず受(う)け入(い)れるのか。


 すでに、境(さかい)は越(こ)えている。


 夜(よる)の気配(けはい)の中(なか)で、交(か)わしたものは一度(いちど)きりではない。



 ――それを。



 ミナギの后(きさき)にするだと?



 あり得(え)ない。



 ヨモガイの目(め)が、すっと冷(つめ)たくなる。



 それに最近(さいきん)の宇良(うら)の態度(たいど)も気(き)に入(い)らなかった。


 以前(いぜん)のように応(おう)じてこない。


 夜(よ)ごとに誘(さそ)いをかけても、うまく躱(かわ)され続(つづ)けている。


 体(からだ)の内(うち)に溜(た)まるものは消(き)えず、むしろ重(おも)く濁(にご)っていくばかりだった。



 ――この俺(おれ)を焦(じら)らしているのか。



 ヨモガイはゆっくりと息(いき)を吐(は)いた。


 部屋(へや)に漂(ただよ)う香(こう)の煙(けむり)が、かすかに揺(ゆ)れる。


 その向(む)こうで、彼(かれ)の目(め)だけが鋭(するど)く光(ひか)っていた。


 まるで獲物(えもの)を逃(に)がすまいとする獣(けもの)のように。


     



 その夜(よる)。


 回廊(かいろう)に、乾(かわ)いた足音(あしおと)がひとつ響(ひび)いていた。



「……どこへ行(い)く」



 低(ひく)く押(お)し殺(ころ)した声(こえ)。


 宇良(うら)は足(あし)を止(と)める。


 少(すこ)しの間(ま)を置(お)いて、ゆっくりと振(ふ)り返(かえ)った。


 そこに立(た)っていたのは、ヨモガイだった。



「少(すこ)し風(かぜ)に当(あ)たろうかと」



 何事(なにごと)もないように答(こた)える。


 声(こえ)は穏(おだ)やかだった。


 だが、その目(め)の奥(おく)にはわずかな警戒(けいかい)がある。


 その変化(へんか)を、ヨモガイは見逃(みのが)さなかった。



「最近(さいきん)、つれないな」



 言(い)いながら、一歩(いっぽ)近(ちか)づく。


 宇良(うら)は動(うご)かない。



「……滅相(めっそう)もございませんわ。ただ――」



 言(い)い終(お)わる前(まえ)に、腕(うで)を掴(つか)まれた。


 強引(ごういん)に。


 振(ふ)り払(はら)おうとした瞬間(しゅんかん)、そのまま引(ひ)き寄(よ)せられる。

 


「やめて」

 


 低(ひく)い声(こえ)。


 だがヨモガイは、薄(うす)く笑(わら)っただけだった。



「何(なに)を今(いま)さら」



 次(つぎ)の瞬間(しゅんかん)。



「――……ッ!」



 宇良(うら)の背(せ)が柱(はしら)へ打(う)ちつけられる。


 逃(に)げ場(ば)はない。


 冷(つめ)たい木(き)の感触(かんしょく)が背中(せなか)に伝(つた)わった。



「……離(はな)して」



 その声(こえ)には、わずかに焦(あせ)りが混(ま)じる。


 その変化(へんか)が、かえってヨモガイを刺激(しげき)した。



「嫌(いや)だと言(い)っても、体(からだ)は覚(おぼ)えているだろう?」



 指(ゆび)が顎(あご)を掴(つか)み、無理(むり)やり顔(かお)を上(あ)げさせる。


 抵抗(ていこう)する力(ちから)ごと押(お)さえ込(こ)むように。



 ――その時(とき)だった。


 空気(くうき)が、かすかに揺(ゆ)れる。


 ヨモガイの体(からだ)が不自然(ふしぜん)に傾(かたむ)いた。


 支(ささ)えを失(うしな)ったようによろめき――


 そのまま床(ゆか)へ崩(くず)れ落(お)ちる。



 静寂(せいじゃく)。


 遅(おく)れて、倒(たお)れる音(おと)だけが響(ひび)いた。



 倒(たお)れ伏(ふ)したヨモガイの背後(はいご)に、すでにして「それ」は立(た)っていた。


 夜(よる)の帳(とばり)を切(き)り取(と)って縫(ぬ)い合(あ)わせたかのような黒衣(こくい)。


 油火(あぶらび)の残光(ざんこう)をわずかに浴(あ)びて薄(うす)ぼんやりと浮《う》かび上《あ》がるのは、禍々(まがまが)しい渦《うず》を刻《きざ》み込《こ》んだ木地《もくじ》の面《めん》。

 


 気配(けはい)はほとんどない。


 そこにいると気(き)づいた時(とき)には、もう手(て)の届(とど)く距離(きょり)にいる。


 人(ひと)とは思(おも)えないほど静(しず)かで、不気味(ぶきみ)な存在(そんざい)だった。



 宇良(うら)は柱(はしら)に背(せ)を預(あず)けたまま、乱(みだ)れた息(いき)を呑(の)み込(こ)んで静(しず)かに問(と)いかけた。



「……殺(ころ)したの?」



 驚(おどろ)いているわけではない。


 ただ事実(じじつ)を確(たし)かめるための声(こえ)だった。



「いえ」

   


 返事(へんじ)は淡々(たんたん)としている。

 


「急所(きゅうしょ)を突(つ)いて眠(ねむ)らせただけです」



 路傍(ろぼう)の小石(こいし)を蹴(け)り飛(と)ばしたかのような、何(なん)の感情(かんじょう)も含(ふく)まぬ淡々(たんたん)とした響(ひび)きだった。


 

「部屋(へや)に運(はこ)んでおきます」



 男(おとこ)は躊躇(ためら)うことなく身(み)を屈(かが)めると、床(ゆか)に転(ころ)がるヨモガイの襟首(えりくび)と足首(あしくび)を無造作(むぞうさ)に掴(つか)み、まるで抜(ぬ)け殻(がら)を片付(かたづ)けるように軽々(かるがる)と己(おのれ)の肩(かた)へと担(かつ)ぎ上(あ)げた。


 黒衣(こくい)の裾(すそ)が翻(ひるがえ)る。


 足音(あしおと)どころか衣擦(きぬず)れの音(おと)すら立(た)てず、その異形(いぎょう)の影(かげ)は、夜(よる)の闇(やみ)が口(くち)を開(あ)けて待(ま)つ回廊(かいろう)の深部(しんぶ)へと、滑(すべ)るように溶(と)け込(こ)んで消(き)えていった。



 残(のこ)されたのは、宇良(うら)ひとりだった。

 


「…………」



 しばらく動(うご)かない。


 宇良(うら)はしばし、男(おとこ)が消(き)えた闇(やみ)の輪郭(りんかく)を見(み)つめたまま立(た)ち尽(つ)くしていた。


 手首(てくび)に残(のこ)るヨモガイの指(ゆび)の跡(あと)が熱(あつ)く疼(うず)いている。


 だが、乱(みだ)れかけた胸(むね)の鼓動(こどう)に手(て)を当(あ)て、深(ふか)く、細(ほそ)く息(いき)を吐(は)き出(だ)す。



 一度(いちど)だけゆっくりと瞬(まばた)きをすると、瞳(ひとみ)の奥(おく)に揺(ゆ)らいでいた微(かす)かな波紋(はもん)は完全(かんぜん)に消(き)え去(さ)り、何事(なにごと)もなかったかのような氷(こおり)の静(しず)けさが、再(ふたた)びその相貌(そうぼう)を美(うつく)しく覆(おお)い隠(かく)していった。





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