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蜘蛛





 宮(みや)の奥深(おくぶか)くに据(す)えられた私室(ししつ)は、外(そと)の夜気(やき)をすべて呑(の)み込(こ)んだような重(おも)い静寂(せいじゃく)に沈(しず)んでいた。


 素焼(すや)きの小皿(こざら)に満(み)たされた油火(あぶらび)が、かすかな風(かぜ)を拾(ひろ)ってちろちろと揺(ゆ)れる。


 壁(かべ)には引(ひ)き伸(の)ばされた淡(あわ)い影(かげ)が蠢(うごめ)き、部屋(へや)の隅(すみ)に立(た)つ太(ふと)い丸太柱(まるたばしら)のあたりで、ひときわ濃(こ)い闇(やみ)となって淀(よど)んでいた。


 その淀(よど)みそのもののように、黒衣(こくい)の影(かげ)が微動(びどう)だにせず佇(たたず)んでいる。



「……少(すこ)しは肩(かた)の力(ちから)を抜(ぬ)いたらどう?」



 低(ひく)い卓(つくえ)の前(まえ)に座(ざ)す宇良(うら)は、手(て)にした土器(どき)の杯(さかずき)をかすかに傾(かたむ)けた。


 喉(のど)をくすぐるように小(ちい)さく笑(わら)い、艶(つや)を含(ふく)んだ吐息(といき)を落(お)とす。



「ほら、お酒(さけ)でもいかが。今宵(こよい)のものは珍(めずら)しいのよ」



 杯(さかずき)の底(そこ)で揺(ゆ)れる液体(えきたい)は、油火(あぶらび)の橙(だいだい)を吸(す)って琥珀(こはく)よりも深(ふか)く、沈(しず)みかけた夕陽(ゆうひ)のような紅(くれない)を孕(はら)んで妖(あや)しく輝(かがや)いていた。



「美(うつく)しい色(いろ)でしょう? 滅多(めった)にないものなの」



「――任(にん)の最中(さいちゅう)ですので」



 短(みじか)く、抑(おさ)えた声(こえ)。


 男(おとこ)は微動(びどう)だにしない。



「相変(あいか)わらずお硬(かた)いわね……」



 宇良(うら)はわざとらしく溜息(ためいき)をつき、杯(さかずき)を揺(ゆ)らした。


 火(ひ)の明(あ)かりが、彼女(かのじょ)の横顔(よこがお)を艶(つや)やかに縁取(ふちど)る。



 しばし、沈黙(ちんもく)が落(お)ちる。


 宇良(うら)は杯(さかずき)からすっと視線(しせん)を外(はず)し、探(さぐ)るような、あるいは退屈(たいくつ)を紛(まぎ)らわすような眼差(まなざ)しを闇(やみ)へ向(む)けた。



「あなた、名前(なまえ)は?」



 わずかな間(ま)。



「……ありません」



「ない?」



「呼(よ)ばれるべき名(な)は、持(も)たぬ身(み)にございます……ただ、蜘蛛(くも)と」




 渦蜘蛛(うずぐも)――


 それは奴国王(なこくおう)の影(かげ)。


 顔(かお)を捨(す)て、名(な)を捨(す)て、ただ任(にん)のためだけに生(い)きる者(もの)たちの呼(よ)び名(な)。


 宇良(うら)の目(め)が細(ほそ)められる。



「クモ、ね」



 宇良(うら)はその響(ひび)きを舌(した)の上(うえ)で転(ころ)がし、甘(あま)やかな毒(どく)を含(ふく)ませるように目(め)を細(ほそ)めた。



「なら、そのクモのお顔(かお)――見(み)せてちょうだいよ」



 ぴくり、と。


 面(めん)の奥(おく)で、極(きわ)めてわずかに気配(けはい)が揺(ゆ)らいだ。



「……それは」



「なに?」



 宇良(うら)は杯(さかずき)を置(お)き、ゆっくりと立(た)ち上(あ)がる。


 足音(あしおと)ひとつ立(た)てずに影(かげ)の領域(りょういき)へと踏(ふ)み込(こ)んでいく。


 吐息(といき)が届(とど)く間合(まあ)いで、宇良(うら)は立(た)ち止(ど)まった。



「見(み)せられない理由(りゆう)でもあるのかしら」



「……見(み)て、愉(たの)しまれるようなものではございませんゆえ」



「だから見(み)たいのよ」



 宇良(うら)は微笑(ほほえ)む。


 柔(やわ)らかく、だが逃(に)がさぬ声音(こわね)で。



「これは命令(めいれい)。従(したが)いなさい」



 その一言(ひとこと)が、静(しず)かに落(お)ちる。


 拒(こば)む余地(よち)はなかった。




 やがて、クモの手(て)が布(ぬの)にかかる。


 ほんの一瞬(いっしゅん)の逡巡(しゅんじゅん)。


 それでも、命(めい)に背(そむ)くことはできない。


 頭巾(ずきん)がゆっくりと持(も)ち上(あ)げられ、闇(やみ)に沈(しず)んでいた輪郭(りんかく)がわずかに浮(う)かび上(あ)がる。


 続(つづ)いて、渦(うず)を刻(きざ)んだ面(めん)に指(ゆび)がかかる。


 結(むす)びを解(ほど)き、外(はず)すその動作(どうさ)は、どこか儀式(ぎしき)めいて静(しず)かだった。



 面(めん)が外(はず)れ、灯火(ともしび)の光(ひかり)がその相貌(そうぼう)を射抜(いぬ)いた。


 露(あら)わになったのは、まだ二十代(にじゅうだい)とおぼしき若(わか)い男(おとこ)の顔(かお)だった。


 右半分(みぎはんぶん)は、引(ひ)き締(し)まった涼(すず)やかな輪郭(りんかく)と、滑(なめ)らかな若(わか)い肌(はだ)を残(のこ)している。


 意志(いし)の強(つよ)そうな唇(くちびる)の端(はし)、すっきりと通(とお)った鼻梁(びりょう)。



 だが、左半分(ひだりはんぶん)は――


 皮膚(ひふ)は爛(ただ)れて引(ひ)き攣(つ)れ、赤黒(あかぐろ)い火傷(やけど)の跡(あと)が耳(みみ)の付(つ)け根(ね)から顎下(あごした)まで、樹(き)の根(ね)のように深(ふか)く刻(きざ)み込(こ)まれている。


 焼(や)かれて癒着(ゆちゃく)した瞼(まぶた)は二度(にど)と開(ひら)くことなく閉(と)ざされていた。


 美(び)と惨(さん)が、一本(いっぽん)の正中線(せいちゅうせん)を境(さかい)に残酷(ざんこく)なまでに引(ひ)き裂(さ)かれている。


 男《おとこ》は残(のこ)された右目(みぎめ)を伏(ふ)せ、自嘲(じちょう)を噛(か)み殺(ころ)すように唇(くちびる)を結(むす)んだ。



「……ご覧(らん)の通(とお)り、見苦(みぐる)しい限(かぎ)りでございます。このようなものは――」



 だが宇良(うら)の表情(ひょうじょう)は変(か)わらない。


 息(いき)を呑(の)むことも、眉(まゆ)を顰(ひそ)めることもしなかった。


 ただ、吸(す)い寄(よ)せられるように、その破壊(はかい)された貌(かお)をじっと見(み)つめている。


 冷酷(れいこく)なまでの好奇(こうき)と、奇妙(きみょう)な静(しず)けさを湛(たた)えた瞳(ひとみ)が、傷痕(きずあと)の起伏(きふく)をひとつひとつ辿(たど)る。



「これは、どうしたの?」



 問(と)いは、あまりにも静(しず)かだった。


 クモは視線(しせん)を落(お)とす。


 そして、途切(とぎ)れ途切(とぎ)れに言葉(ことば)を紡(つむ)ぐ。



「幼(おさな)い頃(ころ)……生口(いけこ)でした」

 


 感情(かんじょう)を完全(かんぜん)に削(そ)ぎ落(お)とした、他人(たにん)の身(み)の上(うえ)を語(かた)るかのような淡々(たんたん)とした響(ひび)き。


 だがその底(そこ)には、冷(ひ)え切(き)って凝固(ぎょうこ)した泥(どろ)のような記憶(きおく)が沈殿(ちんでん)していた。



「主人(しゅじん)に刃向(はむ)かったわけでも、粗相(そそう)をしたわけでもありません。ただ……その日(ひ)の機嫌(きげん)に、合(あ)わなかったのでしょう」



 男《おとこ》は短(みじか)く息(いき)を吐(は)き、呪(のろ)いのようにその事実(じじつ)だけを告(つ)げた。



「火(ひ)を――押(お)し付(つ)けられました」



 それ以上(いじょう)、言葉(ことば)を重(かさ)ねる必要(ひつよう)はなかった。


 かつてその幼(おさな)い肌(はだ)を焼(や)き焦(こ)がした煙(けむり)の臭(にお)いと、絶叫(ぜっきょう)すら許(ゆる)されなかった暗闇(くらやみ)の重(おも)さが、揺(ゆ)れる油火(あぶらび)の光(ひかり)の中(なか)で、二人(ふたり)の間(あいだ)にどこまでも生々(なまなま)しく満(み)ちていった。




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