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蠱惑




 しばしの沈黙(ちんもく)。


 やがて――宇良(うら)の指(ゆび)が伸(の)びる。


 白(しろ)くしなやかなその指先(ゆびさき)は、ためらいという概念(がいねん)を知(し)らぬかのように、まっすぐ傷(きず)へと触(ふ)れた。


 焼(や)け爛(ただ)れ、歪(ゆが)んだ皮膚(ひふ)の上(うえ)をなぞるその感触(かんしょく)は、あまりにも異質(いしつ)で――



 びくり、とクモの身体(からだ)が強張(こわば)る。


 反射的(はんしゃてき)な拒絶(きょぜつ)。


 刻(きざ)み込(こ)まれた記憶(きおく)が、瞬時(しゅんじ)に肉(にく)を硬直(こうちょく)させる。



 だが、宇良(うら)は引(ひ)かない。


 触(ふ)れたまま、むしろ慈(いつく)しむように、指先(ゆびさき)をゆっくりと滑(すべ)らせていく。


 そして――次(つぎ)の瞬間(しゅんかん)。


 何(なん)の予兆(よちょう)もなく、唇(くちびる)が降(お)りた。


 熱(ねつ)を帯(お)びた柔(やわ)らかな感触(かんしょく)が、醜(みにく)く歪(ゆが)んだ傷跡(きずあと)に重(かさ)なる。



 クモの呼吸(こきゅう)が、止(と)まる。


 信(しん)じがたいものを見(み)るように、傷跡(きずあと)のない片方(かたほう)の目(め)が大(おお)きく見開(みひら)かれる。



 ――なぜ。



 その問(と)いすら、声(こえ)にならない。


 宇良(うら)は、ゆっくりと顔(かお)を離(はな)した。


 そして、わずかに唇(くちびる)の端(はし)を持(も)ち上(あ)げる。



 くすり、と。



 その笑(え)みは、柔(やわ)らかさの奥(おく)に艶(つや)やかな毒(どく)を孕(はら)んでいる。


 人(ひと)の禁忌(きんき)を踏(ふ)み越(こ)えることに、ためらいも罪悪(ざいあく)も感(かん)じていない者(もの)の微笑(びしょう)。



「……そんな顔(かお)、するのね」



 囁(ささや)きは低(ひく)く、甘(あま)く、絡(から)みつくように落(お)ちる。


 火(ひ)の揺(ゆ)らぎが、その表情(ひょうじょう)に陰影(いんえい)を与(あた)える。


 まるで、傷(きず)そのものを美(び)として見出(みいだ)しているかのような――異質(いしつ)な光(ひかり)を、瞳(ひとみ)に宿(やど)しながら。


 やがてその指先(ゆびさき)が、クモの首元(くびもと)へと滑(すべ)る。



「身体(からだ)にも、あるの?」



 囁(ささや)くように。

 


「見(み)せて?」



 息(いき)が、詰(つ)まる。


 クモは何(なに)も言(い)えない。


 拒(こば)めばいい。


 だが、命令(めいれい)には従(したが)うしかない。


 ――いや、それだけではない。


 今(いま)、彼(かれ)の内(うち)にあるのは――別(べつ)の、説明(せつめい)のつかない感覚(かんかく)。


 喉(のど)が鳴(な)る。



 そのわずかな音(おと)を、宇良(うら)は聞(き)き逃(のが)さなかった。


 するり、と。


 彼女(かのじょ)の手(て)が衣(ころも)の結(むす)びを解(と)く。


 抵抗(ていこう)はなかった。


 いや、できなかった。



 布(ぬの)が落(お)ちる。


 露(あら)わになった肌(はだ)にも、同(おな)じように刻(きざ)まれた痕(あと)。


 焼(や)け跡(あと)、切(き)り傷(きず)、古(ふる)い裂傷(れっしょう)。


 宇良(うら)は、まるで宝物(たからもの)を扱(あつか)うように触(ふ)れる。


 首筋(くびすじ)に、唇(くちびる)が落(お)ちる。


 肩(かた)へ。


 鎖骨(さこつ)へ。


 ひとつ、またひとつ。


 クモの身体(からだ)が、微(かす)かに震(ふる)える。


 それは恐(おそ)れか、拒絶(きょぜつ)か――


 あるいは、もっと別(べつ)のものか。



 宇良(うら)は止(と)まらない。


 ゆっくりと、確(たし)かめるように、その存在(そんざい)をなぞっていく。



 その瞬間(しゅんかん)だった。


 クモの手(て)が、反射(はんしゃ)のように動(うご)く。


 宇良(うら)の肩(かた)を掴(つか)み、半(なか)ば引(ひ)き剥(は)がすように距離(きょり)を取(と)らせた。


 荒(あら)くなりかけた呼吸(こきゅう)を、無理(むり)やり押(お)し殺(ころ)す。


 だが、掴(つか)んだ指先(ゆびさき)にはわずかな震(ふる)えが残(のこ)っていた。



 そのまま――二人(ふたり)は至近(しきん)で対峙(たいじ)する。


 逃(に)げ場(ば)のない距離(きょり)。


 互(たが)いの息遣(いきづか)いが、肌(はだ)に触(ふ)れるほどに近(ちか)い。


 クモの片目(かため)が、まっすぐ宇良(うら)を射抜(いぬ)く。


 問(と)いとも、警戒(けいかい)ともつかぬ強(つよ)い視線(しせん)。



 対(たい)する宇良(うら)は――


 微動(びどう)だにせず、ただ見返(みかえ)していた。


 唇(くちびる)の端(はし)に、あの笑(え)みを宿(やど)したまま。


 挑(いど)むように、誘(さそ)うように。


 その眼差(まなざ)しは、どこまでも妖艶(ようえん)で、底知(そこし)れない。



「……どうしたの?」



 囁(ささや)きは、ほとんど吐息(といき)に近(ちか)い。


 その一言(ひとこと)で、張(は)り詰(つ)めていた均衡(きんこう)が揺(ゆ)らぐ。



 次(つぎ)の瞬間(しゅんかん)――


 クモの腕(うで)が、宇良(うら)の細(ほそ)い腰(こし)を引(ひ)き寄(よ)せた。


 そのまま、貪(むさぼ)り食(く)らうように、その唇(くちびる)を塞(ふさ)ぐ。


 強(つよ)く、荒(あら)く。


 宇良(うら)の身体(からだ)がわずかに揺(ゆ)れるが、拒(こば)まない。


 むしろ、受(う)け止(と)めるように肩(かた)の力(ちから)を抜(ぬ)く。


 わずかに開(ひら)いた隙間(すきま)から、呼気(こき)が触(ふ)れ合(あ)う。


 そのぬるい温度(おんど)をなぞるように、舌先(したさき)が触(ふ)れた。


 びくり、とクモの肩(かた)が揺(ゆ)れる。


 だが、もう退(ひ)かない。


 触(ふ)れたまま、宇良(うら)の舌(した)が滑(すべ)り込(こ)む。


 傷跡(きずあと)に触(ふ)れたときと同(おな)じく、ためらいも遠慮(えんりょ)もなく。


 内側(うちがわ)をなぞるように、ゆっくりと。


 輪郭(りんかく)を確(たし)かめるように、柔(やわ)らかく侵(おか)してくる。


 思考(しこう)が、じわりとほどけていく。


 クモの呼吸(こきゅう)が乱(みだ)れ、胸(むね)が浅(あさ)く上下(じょうげ)する。


 それでも抗(あらが)わず、むしろ――追(お)うように応(おう)じてしまう。



 舌(した)が絡(から)む。


 触(ふ)れて、離(はな)れて、また絡(から)み合(あ)う。


 水音(みずおと)がかすかに混(ま)じり、静寂(せいじゃく)の中(なか)で妙(みょう)に生々(なまなま)しく響(ひび)く。


 宇良(うら)は逃(に)がさない。


 絡(から)め取(と)るように、角度(かくど)を変(か)え、さらに深(ふか)く。


 押(お)し込(こ)むように、奪(うば)うように。


 だが同時(どうじ)に、誘(さそ)うようでもあった。


 応(おう)じるほどに、さらに深(ふか)く沈(しず)められていく。


 クモの指先(ゆびさき)が、無意識(むいしき)に宇良(うら)の衣(ころも)を掴(つか)む。


 力(ちから)がこもる。


 境界(きょうかい)が曖昧(あいまい)になる。


 どこまでが己(おのれ)で、どこからが相手(あいて)か――


 わからなくなるほどに、熱(ねつ)と呼吸(こきゅう)が混(ま)ざり合(あ)う。



 やがて――


 その動(うご)きは、ゆるやかに変(か)わっていく。


 荒(あら)さの奥(おく)に、執着(しゅうちゃく)にも似(に)た熱(ねつ)が滲(にじ)み出(で)る。


 逃(に)がすまいとするように、抱(だ)き寄(よ)せる腕(うで)の力(ちから)が強(つよ)まる。


 宇良(うら)の指(ゆび)が、そっとクモの背(せ)へ回(まわ)った。


 なぞるように触(ふ)れ、受(う)け入(い)れるように引(ひ)き寄(よ)せる。


 火(ひ)の灯(あか)りが揺(ゆ)れる。


 影(かげ)が絡(から)み合(あ)い、ひとつに重(かさ)なっていく。



 そのまま、もつれるようにして――


 二人(ふたり)の身体(からだ)は、静(しず)かに寝台(しんだい)へと沈(しず)み込(こ)んだ。




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