かすかな温もり
まだ闇が濃く残る時間だった。
宇良は、ゆっくりと目を開く。
窓の隙間から差し込む光はない。
夜と朝の境目。
世界が息を潜めているような静けさが、部屋を満たしていた。
ふと、視線を巡らせる。
先ほどまでの出来事が夢だったかのように、室内は整っていた。
乱れた気配は、どこにもない。
そして、自分自身も。
肌は清められ、衣も整えられていた。
まるで何事もなかったように。
その場にいるはずの男の姿も、もうどこにもなかった。
己の存在した痕跡をすべて持ち去って、夜の裂け目へと消えていた。
「……徹底していること」
宇良は、小さく息をこぼし、乾いた唇をわずかに緩めた。
――なぜ、あんな真似をしたのだろう。
その答えは、自分でもよく分からない。
ただ――
理由は、ひとつではなかった気がする。
最近になって、胸の奥に少しずつ積もり始めていたものがある。
兄――阿久良。
幼い頃から見上げてきた背中だった。
逆らう理由などなかった。
逆らおうと思ったこともない。
けれど近頃は――
気づかないうちに、胸のどこかで息苦しさを覚えることがあった。
兄の思うままに進むこと。
兄が決めた道を歩くこと。
それが当然だったはずなのに。
時折、どうしようもなく反発したくなる。
そんな自分がいることに、宇良は気づいていた。
そしてクモは、阿久良の影だ。
兄に仕え。
兄の命に従い。
兄のために生きている男。
だから――ほんの少しだけ。
意趣返しのような気持ちも、あったのかもしれない。
兄のものを。
兄の影を。
自分の方へ向かせてみたい。
そんな子供じみた感情が、どこかにあったのだろう。
けれど。
仮面を外した彼を見た瞬間――
胸の奥で、何かが静かに揺れた。
焼け爛れた皮膚。
閉ざされた片目。
痛々しい傷跡。
本来なら、人が目を背けるものだ。
けれど宇良には、そうは見えなかった。
不思議なほどに。
どうしようもなく。
――美しいと思った。
奪われ。
焼かれ。
人間としての名を削ぎ落とされながらも。
なお、そこに残った生の骨格。
そんなものが、静かにそこにあった。
何より宇良の胸を抉ったのは、彼が浮かべたかすかな自嘲の表情だった。
全てを諦め。
己を泥屑のように値踏みしながら。
深い孤独を湛えたような眼差し。
まるで。
誰にも見つけてもらえないまま、取り残された小さな少年のようだった。
助けを求めることさえ忘れ、暗い場所にひとり座り続けているような。
そんな姿が――なぜか見えた気がした。
だから触れたのだろうか。
だから、あんなことをしたのだろうか。
自分でも分からない。
ただ。
あの時は、そうしたかったのだ。
不思議だった。
普段なら――
男と体を重ねた後には、決まって胸の奥に空っぽな感覚が残った。
何かを失ったような。
どれだけ時が過ぎても埋まらないような。
そんな虚しさが、いつも後に残っていた。
けれど今は違う。
胸の内は静かだった。
そして、どこか満たされている。
そのことが、自分でも不思議だった。
思い返せば――これまでの男たちは皆、似たようなものだった。
欲しいものを手に入れるように。
あるいは力を示すように。
荒々しく触れられることが当たり前だった。
だが、クモは違った。
信じられないほど慎重で。
驚くほど優しかった。
まるで薄氷を扱うかのように。
恐る恐る、息を殺して。
慈しむように触れてくる。
それでいて、その奥にある熱までは隠しきれていない。
頑なに心を殺そうとしながら、指先ひとつに溢れ出してしまう――
宇良の唇に、小さな笑みが浮かぶ。
「……本当に」
誰に向けるでもなく呟く。
あんな男だとは思わなかった。
慣れないほどに優しくて。
落ち着かなくて。
どこかむず痒かった。
けれど――
決して嫌ではなかった。
むしろ胸の奥には、まだかすかな温もりが残っている。
その理由を考えかけて。
宇良はやめた。
今はまだ、言葉にしなくてもいい気がした。
窓の外へ視線を向ける。
夜明け前の空は、まだ暗い。
それでも遠くでは、確かに朝が近づいていた。
まるで少しずつ世界の輪郭が戻ってくるように。
宇良は静かにその空を見つめた。




