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日向の顔、影の貌





 泥(どろ)を巻(ま)き上(あ)げて走(はし)る足音(あしおと)が、練武場(れんぶじょう)に重(おも)く響(ひび)いていた。


 すでに何十周目(なんじゅっしゅうめ)かも分(わ)からない。


 脚(あし)は鉛(なまり)のように重(おも)く、吸(す)い込(こ)む空気(くうき)は肺(はい)を鋭(するど)く削(けず)る刃物(はもの)のようだった。



「もう一度(いちど)だ! 足(あし)を止(と)めるな、宮兵(みやへい)の面汚(つらよご)しどもが!」



 怒声(どせい)の主(ぬし)は、宮(みや)でも一二(いちに)を争(あらそ)う偏屈(へんくつ)で知(し)られる古参兵(こさんへい)だった。


 不機嫌(ふきげん)の理由(りゆう)は誰(だれ)にも分(わ)からない。


 朝一番(あさいちばん)の整列(せいれつ)の時点(じてん)で、その眉間(みけん)には深(ふか)く刻(きざ)まれた皺(しわ)があり、訓練(くんれん)は開始早々(かいしそうそう)から常軌(じょうき)を逸(いっ)したシゴキへと変貌(へんぼう)していた。



「はぁ……っ、はぁ……っ……死(し)ぬ……マジで死(し)ぬ……!」



 モモジの足(あし)はすでに感覚(かんかく)を失(うしな)いかけていた。


 湿(しめ)った地面(じめん)を蹴(け)るたび、腿(もも)の裏側(うらがわ)が千切(ちぎ)れるような悲鳴(ひめい)を上(あ)げる。



 何度目(なんどめ)かの全力疾走(ぜんりょくしっそう)を終(お)え、モモジはその場(ば)に崩(くず)れ落(お)ちるように膝(ひざ)をついた。


 小石混(こいしま)じりの土(つち)に膝(ひざ)がめり込(こ)む感覚(かんかく)すら、麻痺(まひ)した肉体(にくたい)には届(とど)かない。


 顎(あご)の先(さき)から途切(とぎ)れることなく滴(したた)り落(お)ちる大粒(おおつぶ)の汗(あせ)が、泥(どろ)の上(うえ)に小(ちい)さな黒(くろ)いシミをつくっていた。



 隣(となり)ではアオバが激(はげ)しく肩(かた)を上下(じょうげ)させ、両手(りょうて)を膝(ひざ)に置(お)いた姿勢(しせい)のまま体(からだ)を折(お)り曲(ま)げている。


 荒(あら)い息遣(いきづか)いは一向(いっこう)に収(おさ)まりそうにない。



「……あのクソジジイ……何(なん)なんだよ……膳(ぜん)に嫌(きら)いな野菜(やさい)でも入(はい)ってたのかよ……」



 荒(あら)い息(いき)を吐(は)き出(だ)しながら、モモジが力(ちから)なく毒(どく)づく。



 その時(とき)、視線(しせん)の端(はし)で異様(いよう)な光景(こうけい)が捉(とら)えられた。



 数歩先(すうほさき)――チガヤが、ただ静(しず)かに立(た)っていた。


 華奢(きゃしゃ)な肩(かた)。


 薄(うす)い胸板(むないた)。


 宮兵(みや へい)の支給胴甲《しきゅうどうこう》に「着(き)られている」ようにすら見(み)えるその小柄(こがら)な身体(からだ)は、モモジやアオバのように膝(ひざ)を折(お)ることもなく、まっすぐに伸(の)びている。


 顔(かお)には細(こま)かな汗(あせ)が浮(う)かび、胸(むね)がわずかに速(はや)い周期(しゅうき)で上下(じょうげ)しているだけ。


 過酷(かこく)な走(はし)り込(こ)みを終(お)えた直後(ちょくご)だというのに、その瞳(ひとみ)は澄(す)み渡(わた)り、静(しず)まり返(かえ)っていた。


 モモジは、泥汚(どろよご)れを拭(ぬぐ)う気力(きりょく)もないままチガヤを見上(みあ)げた。



「……おまえ」



 チガヤが視線(しせん)だけで振(ふ)り返(かえ)る。



「……こんな時(とき)でも、なんでそんな澄(す)ました顔(かお)してられるんだよ……っ」



「疲(つか)れてるよ」

 


「嘘(うそ)つけ! どこがだよ!」



 裏返(うらがえ)るモモジの声(こえ)に、アオバが息(いき)を漏(も)らしながら苦笑(くしょう)した。



「……でも、ほんと、チガヤって意外(いがい)と体力(たいりょく)あるよな。小柄(こがら)だし、一番最初(いちばんさいしょ)に脱落(だつらく)すると思《おも》ってた」



「……昔(むかし)から、動(うご)くのは慣(な)れてるから」



 短(みじか)く答(こた)えたチガヤの思考(しこう)は、二人(ふたり)が喘(あえ)ぐ現在(げんざい)から離(はな)れ、遠(とお)い過去(かこ)の闇(やみ)へと落(お)ちていく。





 宮兵(みやへい)としての訓練(くんれん)がどれほど過酷(かこく)であろうと、チガヤにとってはぬるま湯(ゆ)に過(す)ぎなかった。



 影(かげ)としての訓練(くんれん)の日々(ひび)――


 それは敗北(はいぼく)がそのまま「死(し)」を意味(いみ)する淘汰(とうた)の場(ば)だった。



 重石(おもし)を巻(ま)きつけて濁流(だくりゅう)を泳(およ)ぎ切(き)り、気配(けはい)を消(け)したまま冷(ひ)え切(き)った泥(どろ)の中(なか)に丸一日(まるいちにち)潜(ひそ)む。


 刺客(しかく)の刃(やいば)から逃(に)げ延(の)び、逆(ぎゃく)に暗闇(くらやみ)の中(なか)で標的(ひょうてき)の喉(のど)を掻(か)き切(き)る。


 眠(ねむ)りを奪(うば)われたまま数日間(すうじつかん)に及(およ)ぶ行軍(こうぐん)が続(つづ)き、肉体(にくたい)は悲鳴(ひめい)を上(あ)げる余裕(よゆう)すらなく感覚(かんかく)を失(うしな)っていった。


 しくじれば、その場(ば)で命(いのち)が終(お)わる。


 何度(なんど)も限界(げんかい)を擦(す)り切(き)らせ、そのたび死(し)の淵(ふち)から身体(からだ)を引(ひ)きずり戻(もど)してきた。


 あの皮膚(ひふ)を刺(さ)すような緊張感(きんちょうかん)に比(くら)べれば、教官(きょうかん)の怒号(どごう)など戯(たわむ)れに過(す)ぎない。


 

 苦(くる)しくないわけではない。


 だが、苦痛(くつう)に心(こころ)を支配(しはい)させない術(すべ)を、身体(からだ)が、血(ち)が覚(おぼ)えているのだ。


 チガヤにとってそれは誇(ほこ)るべき技術(ぎじゅつ)ではなく、生(い)き残(のこ)るために刻(きざ)まれた傷跡(きずあと)のようなものだった。




 影(かげ)として生(い)きる以前(いぜん)の記憶(きおく)は、すでに朧(おぼろ)げだ。


 母(はは)は娼女(あそびめ)だった。


 泥(どろ)まみれのような、決(けっ)していいとは言(い)えない暮(く)らしの中(なか)、病(やまい)で母(はは)を亡(な)くしてからは、生(い)きるために食(た)べ物(もの)を盗(ぬす)む野良犬(のらいぬ)のような日々(ひび)を送(おく)った。



 幼(おさな)いチガヤは貪欲(どんよく)で、すばしっこく、何(なに)より勘(かん)が鋭(するど)かった。


 大人(おとな)たちが何度(なんど)囲(かこ)い込(こ)んでも、すり抜(ぬ)けるように逃(に)げてしまう。


 その異様(いよう)な勘(かん)の良(よ)さは、どこか巫女(みこ)の持(も)つ資質(ししつ)にも通(つう)じていた。




 優秀(ゆうしゅう)な影(かげ)を育(そだ)てるべく各地(かくち)を巡(めぐ)っていたイヌタデが、その鋭利(えいり)な異能(いのう)を見逃(みのが)すはずがなかった。


 チガヤは拾(ひろ)われ、投馬国(とうまこく)へと連(つ)れ去(さ)られた。



 幼(おさな)いチガヤがすぐに宮(みや)へ上(あ)がることはなく、まず送(おく)られたのはイヌタデが裏(うら)で統括(とうかつ)する影(かげ)の養成所(ようせいじょ)だった。


 表向(おもてむ)きには存在(そんざい)すら知(し)られていない深緑(しんりょく)の暗(くら)がり。


 そこには全国(ぜんこく)から集(あつ)められた孤児(こじ)たちが、投馬国(とうまこく)を陰(かげ)から支(ささ)える「刃(やいば)」として削(けず)り出(だ)されていた。



 当(とう)のチガヤに大(おお)きな志(こころざし)などなかった。


 飯(めし)が食(く)えて、雨風(あめかぜ)を凌(しの)げる寝床(ねどこ)がある。


 ただそれだけで十分(じゅうぶん)だった。


 与(あた)えられた過酷(かこく)な訓練(くんれん)も、命(めい)じられた殺伐(さつばつ)とした作業(さぎょう)も、淡々(たんたん)とこなしていくだけ。


 しかし、それでも最初(さいしょ)から群(ぐん)を抜(ぬ)いていた。



 圧倒的(あっとうてき)な身体能力(しんたいのうりょく)。


 常人離(じょうじんばな)れした五感(ごかん)。


 そして、野性(やせい)に近(ちか)い生存本能(せいぞんほんのう)。



 教(おし)えられた殺(ころ)しと潜伏(せんぷく)の技術(ぎじゅつ)を、誰(だれ)よりも早(はや)く吸収(きゅうしゅう)した。


 追跡(ついせき)、隠密(おんみつ)、罠(わな)の察知(さっち)、気配(けはい)を読(よ)む術(すべ)。


 どれを取(と)っても他(ほか)の追随(ついずい)を許(ゆる)さなかった。


 年上(としうえ)の候補生(こうほせい)たちすら次第(しだい)に敵(かな)わなくなり、誰(だれ)も追(お)いつけず、誰(だれ)も捕(つか)まえられなくなった。



 イヌタデは早(はや)くからその突出(とっしゅつ)した才能(さいのう)を見抜(みぬ)き、自(みずか)らの手元(てもと)に置(お)いて徹底的(てっていてき)に鍛(きた)え上(あ)げた。



 同時(どうじ)に、何事(なにごと)もない顔(かお)で他人(たにん)に溶(と)け込(こ)む「無害(むがい)さ」もまた、チガヤの才能(さいのう)だった。


 宮兵(みやへい)見習(みなら)いとして宮(みや)の内部(ないぶ)に潜入(せんにゅう)し、ごく普通(ふつう)の少年(しょうねん)を演(えん)じる現在(げんざい)――



「……おい、チガヤ。聞(き)いてんのか?」



 モモジの声(こえ)で、チガヤはふっと意識(いしき)を引(ひ)き戻(もど)した。



「……聞(き)いてるよ」



 目(め)の前(まえ)では、まだ泥(どろ)まみれの二人(ふたり)が荒(あら)い呼吸(こきゅう)を続(つづ)けている。



「はやく息(いき)を整(ととの)えないと、次(つぎ)の本数(ほんすう)が始(はじ)まるぞ」



「うぐっ、もう勘弁(かんべん)してくれ……」



 泥(どろ)に顔(かお)を埋(うず)めて喘(あえ)ぐモモジと、それを見(み)て情(なさ)けなく笑(わら)うアオバ。


 彼(かれ)らが悲鳴(ひめい)を上(あ)げているこの時間(じかん)は、チガヤにとって、年相応(としそうおう)の少年(しょうねん)として振(ふ)る舞(ま)うことを許(ゆる)された「平穏(へいおん)な表(おもて)の顔(かお)」の日常(にちじょう)だった。



 胸(むね)の奥(おく)の冷(つめ)たい闇(やみ)を押(お)し隠(かく)し、チガヤは支給(しきゅう)された重(おも)い胴甲(どうこう)の紐(ひも)を、静(しず)かに結(むす)び直(なお)した。





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